土浦市

土浦市(つちうらし)は、茨城県南部に位置する市。業務核都市、国際会議観光都市。

概要

茨城県発足から1980年代まで茨城県南地域の行政・経済及び周辺地域の交通の要衝としての役割を担っていた[要出典]。1918年(大正7年)の筑波鉄道(旧・関東鉄道筑波線、1987年廃止)の開通、東隣の稲敷郡阿見村(現:阿見町)に1929年(昭和4年)に海軍航空隊が設置されたことなどによって交通の要衝となり、料亭や遊郭その他休養施設が多かったこともあって、終戦に至るまで海軍の町でもあった。戦後は、土浦駅西口(市中心部)に小網屋(1999年閉店)、京成百貨店(1989年閉店)、丸井(2003年閉店)などの百貨店が立地し、商業都市としての役割を担っていた[要出典]。

土浦駅前のバスターミナルは地域の中で最も多数のバス発着起点であったが、1970年代からの新治郡・筑波郡・稲敷郡の各一部(現:つくば市)における筑波研究学園都市の開発、1990年代以降のモータリゼーションの発達や規制緩和の影響による郊外型店舗増加により、駅周辺の大型商業施設はペルチ土浦(駅ビル)を残すのみとなるなど、中心市街地の求心力は低下した[要出典]。しかし、現在も行政機関が集積されているほか、周辺市町村より多く高等学校が立地する[要出典]。

市内では、日本三大花火の一つである土浦全国花火競技大会が毎年10月に開催される。また、レンコンが特産品であることと、海軍に縁があり飛行船「ツェッペリン伯号」が飛来した際にカレーを振舞ったことから、レンコンを入れたカレーで町おこしを行っている。[1]

歴史

古代
「霞ヶ浦#近代以前」も参照
霞ヶ浦の西に広がるこの地域には古くから人々が活動し、市域には旧石器時代からの遺跡がある[2]。縄文時代には、縄文海進により霞ヶ浦は大きな入り江(古鬼怒湾)となったと考えられており、その周辺に暮らす人々によって多くの貝塚が残された[2]。上高津貝塚(上高津)はその代表である[2]。弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡も多く見つかっており、この地域が多くの人口を有していたことがうかがえる[2]。

后塚古墳や王塚古墳(ともに手野町)、武者塚古墳(上坂田)といった古墳は、ヤマト政権と手を結ぶ豪族の出現を物語る[2]。律令制により常陸国が設けられ、その下に11の郡が置かれたが[2]、現在の土浦市中心部は当時の茨城郡に属し(のちの太閤検地の際に新治郡所属とされた)、市域は筑波郡・河内郡・信太郡にもまたがる[2]。

中世
1151年、信太郡西部を中心とする一帯(現在の稲敷郡西部から土浦市・新治郡にかけての広大な地域)に、信太荘が成立[3]。「土浦」という地名は、元徳元年(1329年)、東寺領であった信太荘内の地名として「東寺百合文書」所収の文書[4]に登場するのが初出である[5](ただしこの「土浦」は、信太郡土浦村(現在の稲敷郡美浦村土浦)を指す)[要出典]。志田荘は、平安時代末期に志田義広が本拠を構え、鎌倉幕府成立後は八田知家が地頭として関わった。以後志田荘は、八田知家の末裔で小田城(現在のつくば市小田)に拠った小田氏の勢力下に置かれた。

室町時代の永享年間(1429年-1441年)、小田氏に属する若泉氏によって土浦城が築かれた。その後、小田氏配下の菅谷氏が城主となり、佐竹氏によって小田城を追われた小田氏治を迎え入れている。土浦城は小田氏の居城となり、小田原征伐まで小田氏が一帯を治めた。

近世
小田原征伐後、小田氏は所領を没収され、その旧領は結城秀康の所領の一部となった。慶長6年(1601年)、結城秀康が越前に移転すると、藤井松平家の松平信一が3万5000石で土浦に入封し、土浦藩が成立した。その後、西尾氏・朽木氏が入ったものの、寛文2年(1662年)に若年寄土屋数直が入封。以後、一時期を除いて土浦は土屋氏の城下となった。土屋氏の石高は時期によって変遷があるが、綱吉から吉宗まで4代の将軍のもとで老中を務めた土屋政直の時代に9万5000石まで加増された[6]。

慶長9年(1604年)、水戸街道(陸前浜街道)が整備され、現在の市域には江戸千住方面から水戸方面へ順に、荒川沖宿、中村宿、土浦宿、中貫宿の4つの宿場が置かれた(このほか、土浦宿と中貫宿の間の宿として真鍋宿がある)。街道は土浦の城下町を通っており[6]、本陣・旅籠・問屋が置かれて土浦は宿場町としての性格も具えることになった。土浦は水戸街道と、霞ヶ浦水運が結びつく水陸交通の要地であり、多くの商家が軒を連ねた。土浦は常陸国では水戸に次ぐ第二の都市として繁栄し[6]、1786年の調査では人口3988人を数えている。

土浦では醤油醸造業が盛んになり、野田・銚子とも並び称された[6](土浦の醤油醸造業の歴史については、2017年現在唯一の業者である柴沼醤油醸造の項目を参照)。江戸時代後期には、土浦の商人層からは国学者色川三中や、天文・地理学者沼尻墨僊が出た[6]。

近代
明治維新期、廃藩置県後の明治4年(1871年)に新治県が設置され、土浦はその県庁所在地となった[7]。1875年(明治8年)に新治県は分割され、土浦を含む利根川以北は茨城県に編入された。土浦は茨城県南部地域の中心都市として、県庁第一支庁(1875年設置[8]。現在の県南県民センター)、地方裁判所支部(1875年設置[9])、旧制中学校(旧制土浦中学校、現在の茨城県立土浦第一高等学校。1897年開設)などが置かれた。

1896年(明治29年)から翌1897年にかけて、日本鉄道の手により現在の常磐線が開通(当時の名称は土浦線。1896年に土浦~友部間、1897年に土浦~田端間が開通。1906年国有化)。それまでの内陸水運に代わり、鉄道が主な交通手段となる。1918年(大正7年)には土浦~筑波間に筑波鉄道(筑波鉄道筑波線、のち岩瀬まで延伸。1987年廃線)が開通し、土浦駅が常磐線との結節点となった。

1940年(昭和15年)、土浦町と真鍋町が合併、市制を施行し土浦市が発足した。

第二次世界大戦以前、土浦の南に隣接する稲敷郡阿見町に海軍の飛行場があったことから、土浦は海軍の町であった。1921年(大正10年)に阿見に霞ヶ浦飛行場が完成し、搭乗員養成機関である「霞ヶ浦海軍航空隊」が設置された。海軍関係者や面会者のための料亭や遊郭その他休養施設が現在の桜町に集められ、終戦に至るまで海軍の町としての役割を担った。霞ヶ浦飛行場には、海軍航空兵(海軍飛行予科練習生、通称「予科練」)の教育機関「土浦海軍航空隊」(1940年(昭和15年)開設)が置かれたことで知られる。

1945年(昭和20年)6月10日の阿見空襲では土浦市の市街地も爆撃され、数名の死者が出ている。

現代
第二次世界大戦後から、1950年代に進められた昭和の大合併の中で、土浦市は新治郡都和村・上大津村や、稲敷郡朝日村の一部(荒川沖付近)を編入。

1985年(昭和60年)の国際科学技術博覧会(通称科学万博)が現在のつくば市で開催されたことにより、インフラ整備が進む。

平成の大合併の中で、2006年に新治村を編入。2014年2月10日には、土浦市長とつくば市長が合同記者会見を開き、両市の合併・中核市への発展を視野に入れた定期的な勉強会を開くことが発表された[10]が、2017年につくば市側からの申し入れにより勉強会は解消した[11]。

土浦の由来
土浦村(現在の稲敷郡美浦村に吸収合併)からそのまま借りたという説、土屋藩の「土」と十一の「浦」の合成地名という説や、「津々浦々」からの転訛などの説がある。