相模原市

相模原市(さがみはらし)は神奈川県北部にある政令指定都市である。緑区、中央区、南区の3区で構成される。

概要

相模原市は、神奈川県内では横浜市、川崎市についで第3位の人口規模を擁しており、2007年3月11日の2町の編入合併により人口は70万人を超え、全国の市で第18位である。相模原市が市制施行されたのは1954年(昭和29年)だが、戦後に純粋に市制施行された都市の中では最も人口が多い(さいたま市、北九州市が誕生したのは戦後だが、これら2市は複数の自治体の新設合併により誕生した都市であり、合併時に戦前に市制施行された都市が含まれる)。2010年3月末までの政令指定都市移行と、首都圏サミットへの参加を目指していたが、2009年10月2日に原口一博総務大臣が必要な作業に入るよう指示し、その後、10月23日の閣議で相模原市を2010年4月1日を以て政令指定都市に昇格させることが決定された[1]。非道府県庁所在地では5番目、戦後に市制施行された都市では初の政令指定都市の誕生となり、2009年4月1日に移行した岡山市に次ぐ19番目の政令指定都市(緑区・中央区・南区の3区制)へ移行した。これにより、神奈川県は全国で唯一の3つの政令指定都市を持つ都道府県となる。2017年現在は鳥取県・島根県・高知県の人ロを上回る72万人。

経済面や鉄道・道路などの地理上、県内他市よりも東京都、特に多摩地域とのつながりが強い。また、首都圏南西部の核として国から位置づけられている(首都圏業務核都市指定都市)。市では首都圏南西部をリードする広域交流拠点都市となるべく、「さがみはら新都心」の形成を目指している[2]。しかし、東京都心(新宿駅)まで電車で35-40分程度(相模大野より小田急小田原線の快速急行あるいは橋本より京王相模原線経由京王線の特急の場合)であり、産業構造の転換により大型工場の撤退が相次いだことで、ベッドタウンとしての面が一層強まっており、業務機能の集中は弱いのが現状である。そのため、中心市街地法で都市核が複数(橋本・相模大野)認められている都市である。当市以外で複数の都市核が認められているのは静岡市、北九州市、熊本市の3市のみである。また、旧市域は概ね3地区に分けられている(橋本を中心とした北部地区<相模原北警察署管内>、相模原駅付近・中央地区を中心とした中部地区<相模原警察署管内>、相模大野を中心とした南部地区<相模原南警察署管内>)。

歴史

相模国の北部に位置し、旧相模原市域は高座郡に属した。津久井地域の大部分は中世まで愛甲郡に属し「奥三保」と呼ばれていたが(相模川左岸の津久井町三井および城山町北部は高座郡)、江戸時代には同郡から分離して津久井県と称し、明治3年(1870年)に津久井郡と改称された。

なお、この項では2006 – 2007年の旧津久井郡4町との合併までは主に旧相模原市域について述べる。津久井地域の歴史については津久井郡の項を参照。

先史・古代から中世
相模川沿いの段丘上には古くからの人々の生活の痕跡が認められるが、市域でも後期旧石器時代末の建物跡とされる田名向原遺跡や、縄文時代中期の大規模集落跡である勝坂遺跡が分布する。
文献資料においては、平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』(『和名抄』)で相模国高座(たかくら)郡に設置されたと記載されている13郷1駅のうち塩田郷(読みはシホタ)が旧市域内に位置していると比定されている。現在、旧市域南西部の田名地区内の集落名「塩田」が、古代の郷名を継承するものであると考えられている。
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、市域は武蔵国多摩郡に成立した横山荘を本拠に同国西南部から相模国北部にかけて割拠した同族的武士団である横山党の勢力下にあり、同武士団の中には粟飯原(相原)、小山、矢部、田名など旧市域北部の地名に由来する名字が見られる。また、旧市域南部は高座郡渋谷荘を本拠とする渋谷氏の勢力下にあった。
鎌倉時代後期には、当麻に時衆教団(時宗)の道場(無量光寺)が開かれた。
室町時代には上杉氏、戦国時代には北条氏の支配下であった。
近世
幕藩支配
江戸時代初期の寛永10年(1633年)には旧市域西部の相模川沿いの村が武蔵忍藩の飛地領とされ、残りの村は幕府直轄領(天領)または旗本の支配地とされたが、時代が下るにつれて支配が細分化されて非常に錯綜したものになっていった。旗本領とされた村の多くは2家以上が支配する相給とされ、幕府あるいは藩との相給とされる村もあった。幕末の段階で1藩単独の支配となっていたのは、旧市域では下野烏山藩領の上矢部村、大島村、田名村の3村のみである。また、清兵衛新田が幕府単独の、上九沢村が旗本佐野家のみの支配を受けていた。

慶応3年10月14日(1867年11月9日)の大政奉還時点での旧市域各村の支配は以下の通りである。

相原村 – 旗本領(佐野家、藤沢家)
橋本村 – 旗本領(藤沢家、別所家、石野家、高木家)
小山村 – 幕府領、烏山藩領
清兵衛新田 – 幕府領
上矢部村 – 烏山藩領
矢部新田村 – 烏山藩領、旗本領(鈴木家)
淵野辺村 – 幕府領、烏山藩領、旗本領(岡野氏2家)
鵜野森村 – 幕府領、旗本領(永井家)
上鶴間村 – 幕府領、旗本領(大岡家)
上九沢村 – 旗本領(佐野家)
下九沢村 – 旗本領(佐野家、加藤家)
大島村 – 烏山藩領
田名村 – 烏山藩領
上溝村 – 幕府領、烏山藩領、旗本領(石野家、森川家、戸田家、高木家、佐野家)
下溝村 – 幕府領、烏山藩領、荻野山中藩領
当麻村 – 幕府領、旗本領(千葉家、大久保家)
新戸村 – 幕府領、旗本領(土屋家、岡部家)
磯部村 – 幕府領、旗本領(町野家、大津家、大久保家)
これらのうち、幕府領および旗本領は、慶応4年/明治元年6月17日(1868年8月5日)に神奈川府(のち神奈川県)が設置されると、その管轄となった。また、明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県によって、烏山藩領は烏山県、荻野山中藩領は荻野山中県の管轄となったが、同年11月の府県再編によって神奈川県に編入された。

新田開発
原野の広がった台地上段の開発は17世紀半ば以降、境川沿いの村を親村とする新田開発によって始まった。最も代表的なものが小山村の豪農である原清兵衛によって天保14年(1843年)に着手され、安政3年(1856年)までに49名が入植して200ヘクタール (ha) 余りが開拓された清兵衛新田である。ほかに矢部新田、淵野辺新田、大沼新田、溝境新田が開かれた。水が乏しいためにこれらの新田は水田ではなく畑地としての開拓であり、新田集落のまわりには薪炭供給のための雑木林が作られた。相模原に広がる雑木林はこうして植林された人工林である。

台地上の開拓は明治以降も進められた。この時期の開拓地は新開と呼ばれ、橋本新開、下溝新開、谷口新開、篠原新開、中村新開、中和田新開がこれにあたる。 また、戦後も日本国外からの引揚者や帰農者、戦災者などを入植者として受け入れて旧軍用地の麻溝台や新磯野を中心に開拓が行われた。

新田のうち、「清兵衛新田」と「矢部新田」の地名は合併後も大字として残された。「矢部新田」は住居表示の対象区域とならなかった米軍相模総合補給廠内に現存する。「清兵衛新田」は1974年(昭和49年)に最後まで残った区域に住居表示が実施されて消滅するが、新町名である「清新」はこれに由来するものである。

明治以降
相模原市発足までの沿革
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行により高座郡相原村・麻溝村・新磯村・大沢村・大野村・溝村が誕生する。この際、旧田名村は単独で他村とは合併せずに町村制による田名村となった。
相原村、橋本村、小山村、清兵衛新田の合併により相原村が誕生する。
当麻村、下溝村の合併により麻溝村が誕生する。
新戸村、磯部村の合併により新磯村が誕生する。
大島村、下九沢村、上九沢村の合併により大沢村が誕生する。
上矢部村、矢部新田村、淵野辺村、鵜野森村、上鶴間村の合併により大野村が誕生する。
上溝村が溝村と名称変更する。
1926年(大正15年)1月1日 – 溝村に町制が施行され、上溝町が誕生する。
1941年(昭和16年)4月29日 相原村、麻溝村、新磯村、大沢村、大野村、上溝町、座間町、田名村の新設合併により相模原町が誕生する。
町役場を淵野辺に置く。人口3万9,718、面積107.99km2。合併当時は「全国一面積の広い町」であった。
1941年(昭和16年)9月1日 町役場を上溝(旧上溝町役場)に移転
1948年(昭和23年)9月1日 座間町が分立する。面積90.77km2となる。
1954年(昭和29年)4月29日 町役場を清兵衛新田(現在地)に移転。
相模原市発足以降の沿革
昭和40年代まで
1954年(昭和29年)11月20日 市制が施行され、相模原市となる。人口8万0,374(全国で453番目、県下で10番目)。
1955年(昭和30年)7月11日 工場誘致条例を制定する(1961年(昭和36年)3月1日廃止)。
1957年(昭和32年)11月24日 市立体育館が開設される。
1958年(昭和33年)1月1日 消防本部を設置する。
1958年(昭和33年)1月15日 「相模原市民の歌」を制定する。
1958年(昭和33年)8月1日 首都圏整備法による市街地開発区域の指定を受ける。
1960年(昭和35年)6月1日 人口が10万を超える。
1961年(昭和36年)1月1日 市営工業用水道が完成する。
1962年(昭和37年)2月20日 交通安全都市宣言を制定する。
1962年(昭和37年)6月14日 相模原市開発公社(現:(公財)相模原市まち・みどり公社)が設立される。
1962年(昭和37年)12月13日 清掃事業所(現:東清掃事業所)が開設される。
1963年(昭和38年)7月18日 消防署に救急車を配備、救急業務を開始する。
1963年(昭和38年)10月18日 相模原市農業協同組合が設立される。
1964年(昭和39年)1月30日 日本電信電話公社(当時)相模原電報電話局が開設される。
1964年(昭和39年)3月16日 相模原郵便局が開設される(市内初の普通郵便局)。
1964年(昭和39年)5月1日 住居表示を開始する。
1964年(昭和39年)11月20日 市制10周年事業として相模原市史発刊を開始する(1972年(昭和47年)全7巻で完了)。
1965年(昭和40年)3月1日 市営火葬場が開設される。
1965年(昭和40年)11月20日 市立市民会館(相模原市民会館)が開設される。
1967年(昭和42年)6月15日 相模原商工会館が開設される。
1967年(昭和42年)8月28日 人口が20万を超える。
1967年(昭和42年)8月 公共下水道事業を開始する。
1968年(昭和43年)3月1日 市の木「けやき」を制定する。
1968年(昭和43年)5月1日 市立青年の家が開設される。
1968年(昭和43年)6月26日 第1次相模原市総合計画を策定する。
1968年(昭和43年)7月1日 市民プールが開設される。
1969年(昭和44年)7月31日 座間小銃射撃場が日本政府に全面返還される。
1969年(昭和44年)8月31日 市役所本庁舎(現庁舎)が完成する。
1970年(昭和45年)7月1日 給食施設のない小中学校のため、南部学校給食センターが開設される。
1971年(昭和46年)7月5日 人口が30万を超える。
1971年(昭和46年)7月26日 北里大学病院が開院する。
1972年(昭和47年)2月21日 相模大野駅周辺土地区画整理事業が始まる。
1972年(昭和47年)5月 米軍戦車搬出阻止運動が起こる(〜11月)。
1972年(昭和47年)7月1日 消防本部新庁舎が完成する。
1972年(昭和47年)9月1日 市立老人福祉センター「渓松園」が開設される。
1973年(昭和48年)5月1日 保存樹林第1号を指定する。
1973年(昭和48年)7月20日 相模原メヂカルセンター(急病診療所)が開設される。
1974年(昭和49年)3月 第2次相模原市総合計画を策定する。
1974年(昭和49年)4月6日 市制施行20周年を記念して、第1回市民桜まつりが開催される(〜7日)。
1974年(昭和49年)11月20日 市立図書館が現在地に開設される。
1974年(昭和49年)11月20日 市の花「あじさい」、市の鳥「ひばり」を制定する。
1974年(昭和49年)11月30日 キャンプ淵野辺が日本政府に全面返還される。
昭和50・60年代
1975年(昭和50年)3月31日 市財政白書「こども急増びんぼう白書」を発行する。
1975年(昭和50年)4月1日 市立療育センター「陽光園」(心身障害者訓練センター)が開設される。
1976年(昭和51年)6月19日 夜間急患診療を開始する。
1977年(昭和52年)6月6日 人口が40万を超える。
1977年(昭和52年)11月1日 人口が横須賀市を抜き、人口規模で県内第3位になる。
1979年(昭和54年)4月13日 いきがい事業団が発足する。
1979年(昭和54年)4月27日 県立相模原公園が開設される。
1979年(昭和54年)5月13日 市のシンボルカラー「みどり」を制定する。
1979年(昭和54年)7月1日 公共下水道処理を開始する。
1979年(昭和54年)11月18日 市民憲章を制定する。
1980年(昭和55年)9月27日 日本国有鉄道(当時)横浜線の複線化が市内全区間で完成する。
1980年(昭和55年)12月6日 南清掃工場が完成する。
1981年(昭和56年)4月1日 米陸軍医療センターが日本政府に全面返還される。
1981年(昭和56年)4月10日 市立市民福祉会館(相模原市立あじさい会館)が開設される。
1981年(昭和56年)5月1日 行政用同報防災無線「ひばり放送」が開始される。
1981年(昭和56年)11月1日 市立総合体育館が開設される。
1982年(昭和57年)4月9日 相模原市が障害者福祉都市に指定される。
1982年(昭和57年)12月5日 買物公園道路「グリーンプラザさがみはら」が完成する。
1983年(昭和58年)8月29日 市域南部の行政拠点となる市南合同庁舎が完成する。
1983年(昭和58年)11月18日 市立市民健康文化センターが開設される。
1984年(昭和59年)4月1日 市みどりのまちづくり基金と緑地保全基金を制定する。
1984年(昭和59年)6月1日 長野県に「市民たてしな自然の村」が開村される。
1984年(昭和59年)12月3日 核兵器廃絶平和都市を宣言する。
1985年(昭和60年)2月 第3次相模原市総合基本計画を策定する。
1985年(昭和60年)9月18日 市立けやき会館、市立けやき体育館が開設される。
1985年(昭和60年)10月6日 中国・無錫市と友好都市を締結する。
1985年(昭和60年)11月16日 国民年金保養センター「さがみの」が開設される。
1985年(昭和60年)11月17日 市立相模原麻溝公園が開設、ふれあい動物広場が利用開始される。
1986年(昭和61年)7月1日 公文書公開制度が開始される。
1986年(昭和61年)10月18日 市立教育会館が開設される。
1987年(昭和62年)1月5日 住民登録オンラインが開始される。
1987年(昭和62年)3月 市営工業用水道が廃止される。
1987年(昭和62年)4月1日 市立ひばり球場、県立相模原球場が開設される。
1987年(昭和62年)8月10日 人口が50万を超える(全国で22番目)。
1987年(昭和62年)11月8日 友好都市関係として銀河連邦をつくり、サガミハラ共和国が建国する。
1987年(昭和62年)11月15日 市立相模川ふれあい科学館が開設される。
1988年(昭和63年)3月13日 JR東日本横浜線古淵駅が開業する。
1988年(昭和63年)10月1日 複合都市「ロビーシティ相模大野」が発足する。
1988年(昭和63年)11月1日 初めての有料市営駐車場、相模大野立体駐車場が完成する。
1989年(平成元年)以降
1989年(平成元年)4月1日 文部省(当時)宇宙科学研究所が移転する。
1989年(平成元年)4月28日 (財)市民文化財団が発足する。
1989年(平成元年)10月26日 (財)相模原市体育協会が発足する。
1989年(平成元年)12月1日 相模原南メヂカルセンター(急病診療所)がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)1月8日 市立文化会館がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)1月9日 市立相模大野図書館がグリーンホール相模大野内に開設される。
1990年(平成2年)3月30日 京王帝都電鉄(当時)相模原線が、部分開業していた南大沢駅より延伸し、京王相模原線橋本駅が開業する。
1990年(平成2年)5月14日 消防指令センターが完成する。
1990年(平成2年)9月25日 市内初の百貨店、伊勢丹相模原店が開店する。
1991年(平成3年)1月20日 市立淵野辺公園アイススケート場・水泳プール(銀河アリーナ)が開設される。
1991年(平成3年)3月16日 JR東日本相模線が電化完成する。
1991年(平成3年)5月31日 カナダの旧スカボロ市(現トロント市)と友好都市提携。
1991年(平成3年)9月8日 市立北総合体育館が開設される。
1991年(平成3年)12月1日 北清掃工場が完成する。
1992年(平成4年)7月4日 さがみはら男女平等憲章を制定する。
1992年(平成4年)8月19日 (財)みどりの協会が発足する。
1992年(平成4年)8月21日 (財)産業振興財団が発足する。
1992年(平成4年)10月3日 第9回全国都市緑化神奈川フェアが開催される(グリーンウェーブ・相模原’92)。
1992年(平成4年)10月26日 市営斎場が完成する。
1992年(平成4年)11月20日 相模原市環境宣言を制定する。
1993年(平成5年)4月5日 粗大ごみの戸別収集を開始する。
1993年(平成5年)4月12日 市立産業会館が開設される。
1995年(平成7年)11月20日 市立博物館が開設される。
1996年(平成8年)4月20日 市立相模川自然の村公園が開設される。
1997年(平成9年)5月20日 市立総合水泳場(さがみはらグリーンプール)が開設される。
1997年(平成9年)8月1日 市公式Webサイトが開設される。
1997年(平成9年)11月1日 相模原市民ギャラリーが開設される。
1998年(平成10年)9月12日 さがみはらグリーンプールを会場に、かながわ・ゆめ国体夏季大会が開幕する(〜15日)。
1998年(平成10年)11月3日 電話番号の逼迫対策に伴い、市内(磯部、新磯野1丁目、3丁目 – 5丁目、新戸、相武台及び相武台団地を除く)の市外局番が「0427」から「042」に、市内局番が「XX」から「7XX」に変更される。
1999年(平成11年)5月3日 市立北市民健康文化センター(さがみはら北の丘センター)が開設される。
1999年(平成11年)7月20日 電話番号の逼迫対策に伴い、市内(磯部、新磯野1丁目、3丁目 – 5丁目、新戸、相武台及び相武台団地)の市外局番が「0462」から「046」に、市内局番が「XX」から「2XX」に変更される。
1999年(平成11年)12月1日 境川の河川改修に伴い、東京都町田市及び神奈川県大和市との境界の一部を変更し、市面積が90.41km2に減少する。
2000年(平成12年)4月1日 保健所政令市に指定されたことから、相模原市保健所が開設される。
2000年(平成12年)5月29日 人口が60万を超える。
2000年(平成12年)7月8日 さがみはら男女共同参画都市宣言を制定する。
2000年(平成12年)10月28日 さがみはら健康都市宣言を制定する。
2000年(平成12年)11月20日 市が事務事業に「ISO14001環境マネジメントシステム」を導入、認証される。
2001年(平成13年)4月5日 児童数減少に伴う市内初の市立小学校の統廃合を実施する。
市立北相武台小学校と市立磯野台小学校とが統合し、市立もえぎ台小学校が開校(校舎は北相武台小学校を使用)。
2001年(平成13年)4月21日 市立総合学習センターが開設される。
2001年(平成13年)6月30日 小児科医による休日・夜間急病診療が開始される。
2001年(平成13年)7月1日 市が外部監査制度を導入する。
2001年(平成13年)9月29日 市立杜のホールはしもと・市立橋本図書館が開設される。
2003年(平成15年)4月1日 中核市に指定される。
2003年(平成15年)4月1日 「相模原メヂカルセンター」が「相模原メディカルセンター」に改称される。
2003年(平成15年)10月11日 青山学院大学相模原キャンパスが淵野辺に開校する。
2003年(平成15年)12月1日 市内のバス路線が大幅に再編される。
これに伴い、33系統・51バス停留所が廃止、4系統が新設、既存の6系統が大幅増発となる。
2004年(平成16年)2月1日 上鶴間地区の一部で住居表示を実施、上鶴間本町が新設される。
これにより、米軍基地を除く市内の上段部分の住居表示は全て完了となった。
2004年(平成16年)11月1日 小田急線小田急相模原駅北口市街地再開発事業が着工する。
2004年(平成16年)11月20日 市制50周年。
2004年(平成16年)12月1日 境川の河川改修に伴い、東京都町田市との境界の一部を変更し、市面積が90.40km2に減少する。
相模原市民16世帯41人が東京都町田市民となる。
2005年(平成17年)7月13日 市内公共施設(60ヶ所)にAED(自動体外式除細動器)を配置する。
2006年(平成18年)1月30日 コミュニティバス実証運行を開始する。
交通不便地区における高齢者等、移動に制約のある市民の生活交通を確保するため、市が主体となって計画。運行業務は相模神奈交バスに委託し、2年間を期限として実験的に実施。経路は、JR東日本橋本駅南口 – 北の丘センター – 北総合体育館 – 相模川自然の村までの約7kmで、所要時間は片道約30分。運行本数は、上り下りとも8時台 – 18時台まで、1時間に1本ずつ運行される。
2006年(平成18年)3月20日 津久井郡津久井町、津久井郡相模湖町を編入合併する。旧町の各区域に地域自治区を設置。市面積が244.04km2となり、面積規模で県内第2位になる。旧津久井町の姉妹都市であるカナダのトレイル市と継続して友好都市を提携する。
2006年(平成18年)4月1日 市立環境情報センターが開設される。
2006年(平成18年)4月1日 市が設置した文化施設・福祉施設・体育施設に指定管理者制度を本格的に導入する。
2006年(平成18年)5月1日 日米安全保障協議委員会で相模総合補給廠の一部返還等が基本合意される。
2006年(平成18年)10月1日 市コールセンターが開設される。
2007年(平成19年)3月11日 津久井郡藤野町、津久井郡城山町を編入合併する。旧町の各区域に地域自治区を設置。市面積が328.84km2となる。人口が合併特例の政令指定都市昇格要件70万人を超える。
2007年(平成19年)4月1日 政令指定都市移行を視野に入れて市組織に局制が導入される。
2008年(平成20年)4月23日 さがみはら新都心整備構想を発表する(相模総合補給廠一部返還後の跡地利用計画)。
2009年(平成21年)10月23日 相模原市の政令指定都市昇格が閣議決定される。
2009年(平成21年)12月21日 区名が正式に決定(緑区、中央区、南区)。
2010年(平成22年)4月1日 政令指定都市に正式に移行(日本国内19番目)。それに伴い、市内全域において郵便番号が「228-08xx」及び「229-xxxx」から「252-0xxx」に変更。
2010年(平成22年)12月1日 境川の河川改修に伴い、東京都町田市との境界の一部を変更し、市面積が328.83km2に減少。
2011年(平成23年)5月15日 区ごとのシンボルカラーおよびシンボルマークを発表。
2013年(平成25年)12月1日 東京都町田市との境界の一部を変更。
2016年(平成28年)7月26日 放火以外の殺人事件では戦後最悪の犠牲者数となった相模原障害者施設殺傷事件が発生。
2016年(平成28年)7月31日 旧津久井町の姉妹都市であるカナダのトレイル市からの申し入れに同意し、友好都市提携を解消した。[4] 軍都計画

相模総合補給廠の正門(西門)
相模原は東京から近く地価の安い平坦地が広がっていたことから、1930年後半以降、陸軍士官学校をはじめとする陸軍施設があいついで移転・開設されてきた。養蚕を主とする畑作農村から軍事都市への急速な変貌に対応するために神奈川県が主体となって区画整理事業に着手した。1939年(昭和14年)にまとめられた相模原都市建設区画整理事業では、当時の相原村(小山・清兵衛新田・橋本)、大野村(上矢部・矢部新田・淵野辺)、上溝町(上溝)、大沢村(下九沢)にまたがる535万坪(約17.7km2)の区域に10万人の人口を想定した壮大な都市計画が行われた。

造兵廠西門と上溝とを結ぶ街路を縦の軸とし、これと直交する幅の広い街路を横の軸として計画的に街路が配置され、両軸となる街路の交差点付近には中央公園が計画された。区域内は住居地域345万坪(約11.4km2²。1人当たり50坪)、商業地域35万坪(約1.2km2。1人当たり30坪)、工業地域(軍事施設を含む)175万坪(約5.8km2)に分けられ、推計人口10万のうち小学児童を約1万4千人弱と想定して小学校を14校、中等学校が3校整備されることとなっていた。また中央公園をはじめとして区域内の公園用地として約18万坪(約0.6km2)があてられていた。

相模陸軍造兵廠は本来、北側の境川をはさんで町田街道に面した門を正門として敷地内北部に管理機能を集中していた。戦後この施設を相模総合補給廠としている米軍は西門を事実上の正門として使用している。
この都市計画は若干の変更の上、1940年(昭和15年)に内務省から公示されて事業が着手されたが、間もなく始まった第二次世界大戦(太平洋戦争)により工事は停滞し、幹線街路網の整備が進んだところで敗戦を迎えた。一時中断された区画整理事業は戦後も継続されて1950年(昭和25年)に完了した。また水道の整備も戦争末期の1945年(昭和20年)春にはおおむね完了した。

敗戦によって軍都の建設には挫折したが、1960年代以降の急激な都市化の基盤となったのはこの事業によって整備された街路網と水道設備であった。計画の中で横の軸とされた街路は現在国道16号として市内を貫く幹線道路となっている。また縦の軸とされた街路は市役所前通りとして戦後桜並木が整備され、市を代表する顔となっている。これに対して南部の小田急線沿線はこの都市計画の対象区域とはならず、戦後の自然発生的な住宅の建設によって都市化が進行した。無計画に進められた宅地化によって狭く複雑な街路網を擁する区域も少なくなく、軍都計画の対象となった区域とは著しい対照を見せている。

相模原市の膨張や交通量の増大によって国道16号をはじめとする幹線街路での交通渋滞が目立つなど、1940年代に行われた都市計画の限界が現れてきているが、半世紀にわたって急激な都市化を支え続けてきた事実からして軍都計画による区画整理事業の先進性がうかがえる。

相模原町の発足
軍都計画の進展とともに、軍の強力な後押しもあって相模原一帯を合併して一大市を建設する気運が盛り上がった。その過程では、隣接する東京府町田町との合併も話題に上った(陸軍では、上鶴間の原町田陸軍病院(のち相模原陸軍病院と改称)や淵野辺の原町田憲兵隊など、相模原を原町田と一括りにすることが多かった)が、府県境を越えた合併は当時でも困難なことが多く、高座郡北部の9町村(相原村、上溝町、大野村、大沢村、田名村、麻溝村、新磯村、座間町、大和村)が合併の対象となった。

対象地域内では軍都計画地域を中心とする北部(相原・上溝・大沢・田名)と陸軍士官学校を中心とする南部(麻溝・新磯・座間・大和)の間で意見が対立し、特に座間町と大和村では合併反対の意見が強かった。北部5町村と南部4町村による別個の合併も俎上に上ったが、北部の淵野辺地区が軍都計画地域に属する一方で南部の上鶴間地区に士官学校や通信学校、陸軍病院などをかかえる大野村(個別合併案では北部5町村に含まれた)は村が分断されることを恐れて9町村での合併を強く望んだ。軍の強い要請によって座間町は9町村合併の容認に傾いたが、大和村では意見の集約が間に合わず合併から離脱し、大和村を除いた8町村による合併となった。

合併後の新市名として「相武台市」「相武市」「相模市」「相模原市」などがあがった。このうち1937年(昭和12年)に移転してきた陸軍士官学校にちなむ「相武台」は、士官学校移転に際して座間村(当時)が新磯村との合併を持ちかけたときに「座間町」への吸収となることを恐れた新磯村側が提案した呼称でもある(この合併は両村の意見が合わず、座間村が単独で町制を施行した)。「相武台」には陸軍士官学校が昭和天皇から士官学校に下賜された呼称であるとして反対し、最終的に選ばれたのが「相模原市」であった。

市とするにあたっては合併当時の対象地域に市街地がほとんど形成されていないことから内務省の承認が得られず、将来の発展による市制施行を期待しながら、1941年(昭和16年)4月29日に8町村の合併によって高座郡相模原町が発足した。

戦後、軍の圧力がなくなると当初から合併に消極的であった旧座間町では離脱の動きが強まり、1948年(昭和23年)9月1日に旧座間町の区域が分立して座間町が再置された。残りの区域で「昭和の大合併」の最中の1954年(昭和29年)11月20日に市制を施行して相模原市となった。すでに大規模合併を終えていた相模原市では「昭和の大合併」による市域拡張は行われていない。

中核市昇格
1994年(平成6年)に地方自治法が一部改正されて中核市制度が創設され、翌1995年(平成7年)の施行により中核市の指定が始まったが、相模原市は人口要件(30万人以上)は満たしていても面積要件(100km2)を満たさなかったため、長らく中核市指定を受けられなかった。しかし、2002年(平成14年)の改正で人口50万人以上の市の面積要件が削除されたため、2003年(平成15年)4月1日に中核市に指定された(なお、面積要件は2006年(平成18年)の改正で人口にかかわらず全面的に撤廃された)。

その後、2006年3月20日に津久井町と相模湖町を編入し、更に2007年3月11日に城山町と藤野町を編入したことにより、横浜市に次ぐ神奈川県2位の面積となった。

平成の大合併

緑区相模湖総合事務所
(旧相模湖町役場)
2002年10月、津久井郡に属する全4町(城山町・津久井町・相模湖町・藤野町)において住民アンケートが実施され、4町全てで合併に肯定的な結果が出た。城山・津久井両町では相模原市との合併を望む回答が多かったのに対し、相模湖・藤野両町では東京都八王子市との越境合併を望む回答が多かったが、八王子市は両町の打診に対し、合併特例法期限内の越境合併は困難と回答した。

2002年11月、公益社団法人津久井青年会議所が中心となり、住民発議による津久井郡4町による法定合併協議会の設置を求める署名運動を実施し、有権者の50分の1を大きく上回る6418人(4町合計)の署名を集め、2003年1月に各町に請求した。この請求は、県内初となる複数市町村からの同一内容の発議であったが、この法定協議会設置議案を城山・津久井両町議会が否決(相模湖・藤野両町は可決)し、この議決により、津久井郡4町での合併は事実上消滅した。

2003年7月、相模原市と4町が市町村合併に関する研究部会を設置、4町は相模原市に合併協議を申し入れた。

なお、津久井地域4町の人口における年齢の比重(若年層が少なく、高齢者が多い)と開発しにくい土地柄から旧相模原市民には合併のメリットは合併特例を利用した政令指定都市移行が可能になる程度でほぼ無に近く、未だに合併に反対を唱える住民がいる。相模原市が2004年11月8日 – 11月17日に、旧市民1万人を対象にして郵送形式で実施した「相模原市と津久井地域の合併に関する市民アンケート」(有効回収率:35.8%)では、合併の是非は、「合併するべきである」15.3%、「合併することもやむをえない」30.5%で、「合併するべきでない」12.3%、「できれば合併するべきでない」18.8%と、合併反対は3割強であった。「どちらともいえない」は17.3%だった。小川勇夫市長は津久井地域との合併を巡り、住民投票を実施せず、このアンケート調査結果をもとに津久井郡4町との合併を推進した。
2003年12月になり、藤野町が任意合併協議会への不参加を表明したことから、4町は合併協議の申入れを撤回したが、翌2004年1月に城山・津久井・相模湖3町が相模原市に合併協議を申入れ、2004年4月に任意協議会の「相模原・津久井地域合併協議会」を設置した。

藤野町を除く3町は相模原市との合併を目指すこととなった。しかし城山町では町長が合併への慎重姿勢を見せたため、津久井・相模湖両町は先行して相模原市との「飛び地合併」を目指すこととなった。相模湖町では2004年11月に行われた5市町での合併の是非を問う住民投票の結果、反対票がわずかに賛成票を上回ったが、町長は合併協議の継続を表明し、2005年2月に3市町で法定協議会の「相模原市・津久井町・相模湖町合併協議会」を設置した。

2005年3月15日に3市町は合併協定書に調印し、各市町議会、神奈川県議会の可決、総務大臣の告示を経て、2006年3月20日に津久井町・相模湖町は相模原市に編入され、「平成の大合併」期における神奈川県内初の市町村合併となった。

一方、藤野町では2004年6月に行われた住民投票の結果、賛成多数となったことから、2004年8月に相模原市に合併協議を申入れ、2005年4月に相模原市と2市町での法定協議会「相模原市・藤野町合併協議会」を設置した。同町議会は合併に慎重姿勢であったが、2005年7月の町長選で合併推進派の町長が誕生したことで合併協議が加速し、合併方式を相模原市への編入、合併期日を2007年3月11日として、2006年1月26日に合併協定書に調印した。その後、両市町議会、神奈川県議会の可決を経て、2006年8月7日の総務大臣告示により合併が法的に確定した。

城山町も住民からの直接請求を受け、2005年4月に津久井町・相模湖町を含む枠組みでの法定協議会「相模原・津久井地域合併協議会」を設置したが、城山町長(当時)は2005年6月に議会答弁で単独町制の継続を表明し、さらに2005年7月の協議会では43対1で合併目標期日が設定された事に反発して協議会副会長職の辞任届を提出し退席した(反対者は城山町長1人で、辞任届は会長預かり)。その結果、協議会は2005年11月に休止へ追い込まれ、相模原市・津久井町・相模湖町の合併に合わせて廃止された。

2005年11月、城山町で合併推進を求める住民による解職請求が行われ、2006年2月19日に行われた住民投票の結果、賛成多数で町長の解職請求が成立、2006年2月26日には合併に関する住民投票で賛成票が多数となり、2006年3月19日の町長選では合併推進派の町長が当選した。2006年3月30日には城山町長より合併協議会設置の申し入れがあり、藤野町との同時合併を目標とする合意書に調印、両市町議会の可決を経て2006年4月12日に相模原市と2市町での法定協議会「相模原市・城山町合併協議会」を設置した。任意協議会での協議結果および他の合併協議会における協議内容を踏まえた上で迅速な議論を進めた。3回にわたる協議で協定内容が全て調ったことから2006年6月7日に合併協定書に調印、両市町議会、神奈川県議会の可決を経て2006年11月2日の総務大臣告示により合併が法的に確定した。 これにより藤野町と城山町は2007年3月11日に相模原市へ編入される事が確定し、紆余曲折を経た津久井郡4町との合併が完結することになった。

2006年11月2日には、相模原市・城山町・藤野町の公共施設等に、新市の地図が描かれたPR看板が設置された。キャッチフレーズは、「新・相模原市誕生 ともに築こう 新たな未来」である。「相模原市・城山町合併協議会」及び「相模原市・藤野町合併協議会」では、新市をPRすることを目的に、エコーはがきを5万枚作製し、相模原市・城山町・藤野町に所在する郵便局で2007年2月1日に発行した。また、日本郵政公社南関東支社では、2007年3月9日 – 6月8日の期間、オリジナルフレーム切手「新・相模原市誕生」を、市内に所在する郵便局で5,000部販売した。さらに、相模原市では、日比野克彦をビジュアルプロデューサーとして『新「相模原市」新宿メガキャンペーン』を2007年3月10日 – 3月25日の16日間、市の知名度の向上とイメージアップのため、新宿で実施した。新宿駅は鉄道3線(JR東日本・小田急・京王)で相模原市と都心との結節点であり、同駅は乗降客数が日本一である。

2007年3月11日に城山・藤野両町が相模原市に加わり、合併特例の政令市移行要件とみられる人口70万人を超えた為(法定人口:701,568人)、政令指定都市の候補市になった。 また、小川勇夫市長は政令指定都市を目指すことを表明したものの、2007年3月8日に体調不良を理由とする辞職願が助役の代読により表明され、2007年3月21日、肺炎のため逝去した。

2007年4月22日の選挙で、合併特例法の期限内での政令市移行を目指すことを公約とし、小川から後継指名を受けていた前助役の加山俊夫が市長に選出され、2010年3月までの政令市移行を目指すことになった。

政令指定都市移行へ
ウィキソースに地方自治法第二百五十二条の十九第一項の指定都市の指定に関する政令の一部を改正する政令の原文があります。
2006年10月23日 「2007年度予算編成方針」について記者会見を行う。
2007年度重点施策に政令指定都市の調査、研究として、政令指定都市に関する調査委託が盛り込まれる。
具体的には、民間のシンクタンクに調査委託するほか、他の政令指定都市を参考にしながら、市の実態、拠点としての都市機能など具体的に研究していく見通し。今後は、研究結果を定期的な会議を通して意見交換するなど、共同で検討していくという。
2006年12月22日 相模原市自治会連合会が、「政令指定都市への移行実現について」の相模原市長への要望及び相模原市議会議長への陳情を行う。
2006年12月22日 「2007年度行政組織について」報道提供を行う。
政令指定都市への移行を視野に入れた局制の導入による庁内分権の推進等。
2007年1月1日 市広報紙及び市Webサイトに掲載された、小川勇夫相模原市長の「年頭のごあいさつ『新市まちづくりスタートの年』」より
「新しい総合計画の策定に向けた取り組みとともに、政令指定都市への移行に向けた検討を進めてまいります。」とのコメントあり。
2007年1月24日 相模原商工会議所が、「政令指定都市の実現について」の相模原市長への要望及び相模原市議会議長への陳情を行う。
2007年1月29日 「2007年度一般会計当初予算案」を発表する。
政令指定都市移行に関する調査費2,635万円を盛り込む。目的は、市の都市形態や機能などを全国の自治体と比較し、自らの長所や課題を探る。調査は、国の外郭団体「地方自治研究機構」に委託し、都市の拠点性や商業施設の集積度、財政力といったデータを集積し、他都市と比較・検証する。
2007年1月30日 相模原市農業協同組合が、相模原市長に対し、政令指定都市の実現に向け取り組むよう要望書を提出する。
2007年1月31日 小川勇夫相模原市長が市議会3月定例会の施政方針演説で、2010年3月末までの政令指定都市移行を目指すと正式に表明する。
「政令市推進課」を2007年4月1日付で新設。
2007年2月15日 相模原市が市議会3月定例会で、政令指定都市への移行には、少なくとも150 – 170人程度の職員増が必要との見通しを明らかにする。
政令指定都市移行に伴い、児童相談所、精神保健福祉センター、国県道維持管理等の機能を県等から引き継ぐため。
2007年2月15日 松沢成文神奈川県知事が県議会2月定例会の所信表明演説で、「相模原市長は去る1月31日に、今回の合併を契機に、平成22年3月までに政令指定都市への移行をめざすことを表明されました。これは、自らの地域のことは自らの意思で決定し、その財源、権限と責任も自らが持つという、地域主権の理念にかなったものであり、県といたしましても、市からの要請に応じて実現に向け協力をしてまいります。」と述べ、政令指定都市移行を支援する方針を表明する。
2007年3月8日 市議会3月定例会の本会議第8日(最終日)、政令指定都市移行に関する陳情(相模原市自治会連合会、相模原商工会議所及び相模原市農業協同組合)が採択される。
2007年4月23日 前日に行われた選挙の結果、故小川勇夫前市長より後継指名を受けていた加山俊夫が市長に当選し、引き続き2010年3月までの政令市移行を目指すことになった。
2007年5月16日 加山俊夫市長が菅義偉総務大臣と面会し、政令指定都市移行に関する理解と指導を求める。
2007年5月22日 加山俊夫市長が松沢成文神奈川県知事に対し、政令指定都市移行への支援を正式に文書で要請する。
2007年5月23日 市役所に政令指定都市推進本部会議を設置し、移行に向けた本格的な取り組みを開始する。
2007年5月31日 加山俊夫市長が政令指定都市移行に向けた取り組みについて記者会見を行う。
政令指定都市ビジョンを2007年度中に策定する。
区制は、2007年度に行政区画、区名、区役所の位置・機能について庁内で検討のうえ、市民意見を反映させる。2008年度に行政区画等審議会から答申を受け、区画・区名を決定し、区役所設置の準備を開始する。
神奈川県からの事務移譲に関する協議は、県市連絡会議を設置し、2008年春の基本協定締結を目指す。
2007年7月26日 政令指定都市移行に関する県からの事務移管について協議を行うため、第1回神奈川県・相模原市政令指定都市移行連絡会議が開催される。
2007年8月8日 産業経済団体をはじめ、教育・文化、保健・医療、福祉、労働など各分野からの民間団体を母体として相模原市政令指定都市推進市民協議会を設立する。
2007年9月25日 相模原市が市議会9月定例会の政令指定都市に関する特別委員会で、行政区の区割り検討試案を明らかにし、3区制2案と、4区制2案の計4案を試案し区役所位置も想定している。
3区制2案
1-1 旧相模原市を南北へ2区に分け、旧津久井地域を1区とした区分け。
1-2 橋本地区を除いた旧相模原市を南北へ2区に分け、旧津久井地域と橋本地区を加えた地区を1区とした区分け。
4区制2案
2-1 旧相模原市の3拠点を中心に3区に分け、旧津久井地域を1区とした区分け。
2-2 橋本地区を除いた旧相模原市の2拠点を中心に2区に分け、橋本地区と旧津久井地域の旧城山町を加えた部分を1区に分け、残りの旧津久井地域(旧津久井町、旧相模湖町、旧藤野町)を1区とした区分け。
(4区制の場合、旧相模原市の3拠点中心に3区に分ける時は、公共施設が集まる橋本、相模原、相模大野の3拠点を基準に区分けする場合である。)
2007年11月12日 県市連絡会議幹事会議が開催される。
2008年1月28日 – 2月9日 相模原市が「政令指定都市に関する市民説明会」を市内26ヶ所で開催する。
2008年2月4日 第2回県市連絡会議が開催される。
2008年3月25日 第3回県市連絡会議が開催される。
2008年4月1日 – 21日 行政区画等審議会の委員を募集。
2008年5月29日 第4回県市連絡会議が開催される。
2008年5月31日 相模原市行政区画等審議会の初会合が開かれる。(審議会委員は、推薦委員、学識経験者、一般公募市民の計23名)
2008年6月17日 第2回行政区画等審議会が開かれ、区割り案が1-2と2-2に絞られた。
2008年7月1日 第3回行政区画等審議会が開かれ、区割り案1-2(3区制)を採用する事に決定した。
2008年7月15日 第4回行政区画等審議会が開かれ、区割り案1-2(3区制)を採用する答申案の文章を一部修正のうえ答申する事を決めた。
2008年7月18日 行政区画等審議会会長は、区割り案1-2(3区制)の採用を、加山市長へ正式に答申した。
2008年9月2日 政令指定都市移行に係る県協議の状況及び財政収支の見通しについて発表される。
2008年9月10日 第5回県市連絡会議が開催される。
2008年9月19日 行政区画の編成案が決まる(区割り案1-2の3区制)。
A区:橋本、大沢、城山町、津久井町、相模湖町、藤野町
B区:大野北、田名、上溝、本庁
C区:大野中、大野南、麻溝、新磯、相模台、相武台、東林
各区の区域は旧相模原市域は本庁及び出張所の単位
2008年10月15日 区名案の募集を開始(2008年11月14日まで)
2008年11月18日 政令指定都市移行に係る県市の基本協定を締結。
2008年11月25日 第6回行政区画等審議会が開かれ、区名の候補が選定される。
A区:北区、西区、緑区、けやき区、みどり区
B区:中央区、中区、ひばり区、桜区、さくら区
C区:南区、東区、あじさい区、ひばり区、光区
「簡潔さ」「親しみやすさ」などを基準に、委員らが各区五候補を絞り込んだ。
「橋本」「津久井」「大野」など、特定の地名を連想させる区名は候補から外された。
2008年12月15日 相模原市民及び、相模原市内の勤務者・通学者を対象に、各区5候補の区名意向調査を開始。
(2009年1月14日まで)
2008年12月20日 市議会12月定例会の本会議で、相模原市の政令指定都市の実現に関する意見書を可決する。
2009年1月23日 区名意向調査の結果が明らかになり、最多得票がA区は北区、B区は中央区、C区は南区である。
2009年1月26日 第7回行政区画等審議会が開かれ、A区は緑区、B区は中央区、C区は南区とする答申案をまとめる。
A区の名称については、緑区とみどり区の合計数が北区の投票数を上回る事や、区内に水源地(津久井湖、宮ヶ瀬湖など)を有するため水源地としてふさわしい名称として選ばれる
2009年2月4日 行政区画等審議会会長はA区を「緑区」B区を「中央区」C区を「南区」とする答申案を加山市長へ正式に答申した。
2009年2月6日 市議会臨時会で、市民団体が制定を求めていた政令指定都市移行の是非を問う住民投票条例案を否決する。
2009年3月24日 県議会2月定例会の本会議で、相模原市の政令指定都市の指定に関する意見書を可決する。
2009年3月31日 県議会4会派が共同で、相模原市の政令指定都市への移行に慎重な対応を求める要望書を内閣総理大臣と総務大臣に提出する。
2009年4月19日 当日付毎日新聞報道で、A区の名称について「緑区」ではなく「北区」にするよう、A区となる地域の住民からの陳情などが相次ぎ、A区の名称を市庁内で再検討していることが明らかとなった。[5] 2009年5月2日 当日付毎日新聞報道で、相模原市が市民団体「相模原市政令指定都市推進市民協議会」に対して補助金を支出していたことについて住民監査請求をしていた件について、「補助金支出に裁量権の逸脱、乱用があるような事実はうかがえない」として請求を棄却したことが報道された。[6] 2009年6月14日 当日付毎日新聞報道で、A区となる地域住民から出されている「A区を北区とすることについて」の陳情を不採択にし、審議会の答申通り「緑区」とする見通しが明らかとなった。[7] 2009年7月3日 相模原市と総務省との事前協議がまとまったため、松沢成文知事が相模原市の政令指定都市移行実現を求める要望書を佐藤勉総務大臣宛てに提出する。(加山俊夫市長などが同行)
2009年7月14日 政令指定都市推進本部会議で、行政区の名称(区名)を、行政区画等審議会の答申通り(A区は緑区、B区は中央区、C区は南区)とする事や、津久井地域の地域自治区設置期間の変更及び、住所表記について決まった。(旧町名を冠した地域自治区の名称が住所表記から外れることになった。)
2009年7月17日 市民団体が相模原市の政令指定都市の指定見送りを求める署名を総務大臣宛てに提出する。
2009年10月2日 原口一博総務大臣が2010年4月1日より政令指定都市に移行することを市長と県知事に通知。
2009年10月5日 市民団体が総務大臣の「相模原市の政令指定都市移行」指示に対する抗議文書を総務大臣宛てに提出する。
2009年10月23日 鳩山由紀夫内閣がこの日の定例閣議で相模原市を2010年4月1日より政令指定都市に移行させる閣議決定を行った。
2009年10月28日 当日付官報で、指定都市の指定に関する政令の一部を改正する政令(政令第251号)が公布され、政令指定都市への移行が正式に決まった。
2009年12月21日 市議会12月定例会の本会議で、「相模原市区の設置等に関する条例」が可決され、区の名称(緑区・中央区・南区)・区域等が原案とおり決定する。
2010年4月1日 政令指定都市に移行。