横浜市

横浜市(よこはまし)は、関東地方南部、神奈川県の東部に位置する都市で、同県の県庁所在地。政令指定都市の一つであり、18区の行政区を持つ。現在の総人口は日本の市町村では最も多く、四国地方に匹敵するおおよそ373万人であり1府37県の人口を上回る。人口集中地区人口も東京23区(東京特別区)に次ぐ。神奈川県内の市町村では、面積が最も広い。市域の過半は旧武蔵国で、南西部は旧相模国(戸塚区、泉区、栄区の全域と瀬谷区、港南区の一部)。

幕末以降(詳しくは後述)から外国資本が積極的に当地に進出。そのため近代日本において有数の外資獲得力を誇った。関東大震災後は政府による積極的な振興政策により、京浜工業地帯の中核都市となった。

概要

横浜市は東京都心から南南西に約30kmから40km圏内にある、東京湾に面した神奈川県で最大の都市である。横浜市政の中心地は関内地区(中区の関内駅周辺)で、横浜市域の中央駅は横浜駅(西区)[注 2]、横浜市の経済活動の中心地は横浜駅周辺地域である。経済活動の中心地である横浜駅周辺地域は、横浜市政の中心地である関内地区から北北西に約3kmの所にあり、両地域間は事実上分断されており、横浜市政は両地区の中間に位置する横浜みなとみらい21地区(桜木町駅周辺)の開発を進めて、横浜都心の一体的発展を進めている。また、横浜都心臨海部(インナーハーバー[1])に位置する東神奈川臨海部周辺(東神奈川駅周辺および山内ふ頭周辺)地区[2]、横浜駅周辺地区、みなとみらい地区、関内・関外地区、山下ふ頭周辺地区では長期的な都市の再生計画が進行中で、これらの五地区をLRT(次世代型路面電車システム)で結ぶ案も検討されている[3]。

横浜市営地下鉄路線図
横浜市域は比較的広大であり、横浜市政が指定する都心(ツインコア)は、横浜都心(関内・関外地区、横浜みなとみらい21 (MM21) 地区、横浜駅周辺地区[4])[5]、と新横浜都心(城郷地区(小机駅周辺地区)、羽沢地区(羽沢駅(仮称)周辺地区)、新羽地区(新羽・北新横浜駅周辺地区)、新横浜地区(新横浜駅周辺地区))[6]である。また、主要な生活拠点(旧:副都心)としては、鶴見駅周辺、港北NT(港北ニュータウン)センター、二俣川・鶴ヶ峰駅周辺、戸塚駅周辺、上大岡駅周辺が指定されている[7][8]。港北NTセンターを除く各地区は、JR東海道線、横浜線、京急本線、相鉄本線の鉄道駅を中心として古くから発展してきた街である。港北NTセンターは、1965年(昭和40年)に策定された横浜市六大事業の一つとして、当時の港北区(現在の中心は都筑区)に計画的に開発された街である。都心(ツインコア)と各主要な生活拠点(旧:副都心)間は、横浜市営地下鉄のブルーラインおよびグリーンライン(横浜環状鉄道)[9]、横浜環状道路を中核とした自動車専用道路によって[10]、計画的に結ばれる予定となっている。そのほかの郊外区は首都圏への人口集中によるスプロール化した市街地が散在しており、都市基盤整備が推進されている。多摩田園都市をはじめとした市内北西部は、東京都心のベッドタウンとして開発されたため、鉄道網も東京からの放射線が軸となり、東京都心への通勤通学人口が多い(詳細は後述)。

横浜市域は、南に接する鎌倉に鎌倉幕府が置かれた鎌倉時代から本格的に開発され始めた。江戸時代には江戸幕府が置かれた江戸に近いため、幕府直轄地や旗本領が大部分を占め、藩は小規模な六浦藩(金沢区)のみがおかれた。また、大きな港を持たない鎌倉幕府の海の玄関口として六浦湊(金沢区六浦)が、江戸湾(東京湾)内海交通の要衝として神奈川湊(神奈川宿、神奈川区神奈川)が、早くから栄えた。江戸時代末期には、神奈川沖・小柴(旧・六浦湊外周部)で締結された日米修好通商条約により、「神奈川」を開港場にすることが定められた。実際には神奈川湊の対岸にある横浜村[注 3](現在の中区関内地区)に新たに港湾施設が建設され、短期間に国際港の体裁を整えた。安政6年6月2日(1859年7月1日)に開かれた横浜港は「金港」とも呼ばれ、生糸貿易港、商業港、旅客港として、また工業港として急速に発展。横浜を日本の代表的な国際港湾都市へと発展させる礎となった。

1889年(明治22年)4月1日に市制が施行され、横浜市となった[注 4]。市域の面積は、市制施行時には横浜港周辺の5.4 km² にすぎなかったが、6次にわたる拡張と埋立てにより437.38 km² (2006年)となっている。1927年(昭和2年)の区制施行で市域は5区に分けられ、周辺町村の合併と区域の再編を経て、行政区の数は18区となっている。市制施行時の横浜市の人口は約12万人だったが、その後は第二次世界大戦中の一時期を除いて増加の一途をたどり、現在では約370万人となった。これは日本の市では最も多く、人口集中地区人口も東京23区(東京特別区)に次ぐ。ただし人口密度は大阪市、川崎市などのほうが高い。1956年(昭和31年)には政令指定都市に[13]、1988年(昭和63年)には業務核都市[14]、2011年(平成23年)には環境未来都市と国際戦略総合特区に指定され[15]、2012年(平成24年)には横浜駅周辺地区などが特定都市再生緊急整備地域[16]に指定された。

歴史

現市域各地の前史
市域には、およそ25か所の後期旧石器時代の遺跡が発見されている。縄文時代の遺跡は、都筑区の花見山遺跡など数多く見られる。中期までの弥生時代遺跡は少なく、中期後半以降は、都筑区の大塚・歳勝土遺跡など、方形周溝墓を伴う環濠集落が現れる。古墳の出現は4世紀の中期以降とされ、青葉区の稲荷前古墳群などはこの時代の遺跡である。

市域の地名に関する文献上の初出は、『日本書紀』の安閑天皇元年(534年)の条とされる。武蔵国に住む豪族が、橘花(たちばな。橘樹郡)、倉樔(くらす。後に久良(くらき)郡、さらに久良岐郡)ほか4か所を屯倉として献上したと記される。7世紀後半までに市域には、武蔵国橘樹郡、久良岐郡、都筑郡、相模国鎌倉郡が置かれた。都筑区の長者原遺跡は、8世紀に成立した都筑郡衙跡とされる。なお、都筑郡の名が見える最古の記録は、『万葉集』である。延長5年(927年)には、都筑郡の杉山神社が、式内社とされた。この杉山神社には論社がいくつかあり、位置は確定されていない。

市域は奈良時代以降、人口も増えて生産力を高めた。平安時代には各所の開発も進み、坂東八平氏や武蔵七党など、関東武士の力が蓄えられた。市域には、平子氏、榛谷(はんがや、はりがや)氏、稲毛氏、綴党(つづきとう)などの武士団が勢力を張った。今に残る弘明寺、宝生寺など、平安時代以前の建立とされる寺院は、これら有力武士団の支援を受けていたものと考えられる。

称名寺庭園(金沢区)
市域は、鎌倉に鎌倉幕府が開設された12世紀から本格的に開発が始まった。鶴見川や柏尾川などの河川流域では農業が発達し、13世紀前半には、現在の新横浜周辺地域に当たる小机郷鳥山(港北区小机町・鳥山町)から、多摩川・鶴見川周辺地域が、幕府によって大規模に開発された。また、東京湾に面する六浦湊(金沢区六浦)が鎌倉の玄関口として文化・交易・産業の中心地となり、中国大陸(南宋)との貿易(日宋貿易)や内湾の交易によって栄え、武士や商人・職人・宗教者などが多く集まり賑わいを見せ、東海道に接して栄えた神奈川湊(神奈川区神奈川)とともに漁業と海運業の発達へと繋がっていった。

横浜の名の初出は、室町時代中期の嘉吉2年(1442年)の文献である。この年、平子氏の家臣と思われる市川季氏と比留間範数の両名が、石河宝金剛院(現、南区の宝生寺)に、横浜村の薬師堂免田畠を寄進する旨の文書が残されている。横浜村は武蔵国久良岐郡に属し、神奈川湊の対岸、現在では市政の中心街になっている関内地区(中区)にあたる地域にあった。

ペリー一行の上陸

日本海軍水路寮作成海図「武藏國横濱灣」の一部、1874年(明治7年)刊行
江戸幕府が置かれた17世紀以降は、東海道の宿場とされた神奈川宿、程ヶ谷宿(保土ヶ谷宿)、戸塚宿を中心に発展する。特に、神奈川湊を持つ神奈川宿が江戸湾(東京湾)内海交通の要衝の一つとして栄え、対する六浦湊は、歌川広重が金沢八景を浮世絵としたように、風光明媚な景勝地としての色合いを濃くしていった。なお、江戸時代末期までの横浜村は、前出2つの湊とは対照的に、戸数わずか100戸足らずの砂州上に形成された半農半漁の寒村であった。

神奈川開港と都市横浜の誕生・発展
横浜村の運命を一変させたのは、当時国交を持たなかったアメリカのマシュー・ペリー率いる黒船の来航であった。太平洋航路の拠点として、また、捕鯨の際の供給基地として日本の港を利用することを望んだアメリカ海軍の黒船一行は六浦藩小柴村沖(現在の金沢区八景島周辺)に無許可のまま2か月間投錨し、幕府の対応を待った後に横浜沖へと進み入り、その後幕府は横浜村に設営した応接所で外交交渉を行った。交渉の結果、嘉永7年/安政元年(1854年)に横浜村で日米和親条約が締結され、安政5年(1858年)には神奈川沖・小柴(現・八景島周辺)のポウハタン号上で日米修好通商条約が締結された。この通商条約に「神奈川」を開港するよう定めたことが、横浜の都市開発の発端となった。

幕府は、東海道に直結し当時すでに栄えていた神奈川湊を避け、外国人居留地を遠ざけるため、対岸の横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港地とした。横浜村には、短期間で居留地、深谷市在の笹井万太郎により波止場、運上所(税関)など国際港の体裁が整えられ、安政6年6月2日(1859年7月1日)に横浜港は開港した。横浜市では、6月2日を開港記念日としている[注 5]。しかし勅許は6年遅れた。文久/元治元年(1864年)には安政五カ国条約の相手国へ横浜鎖港談判使節団を派遣、失敗。薩英戦争まで起こった。騒然とした世相にも関わらず、横浜にはジャーディン・マセソン、デント商会、そしてオリエンタル・バンクが進出してきた。慶応2年(1866年)には香港上海銀行も支店を出した。明治5年(1872年)にはドイツ銀行までやってきた。

神奈川県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店、中区)

日本郵船横浜支店(中区)
横浜村は幕府が設置した運上所(税関)を境に、以南を外国人居留地(横浜居留地)、以北を日本人居住区とした。境界には関所が置かれ、関所から外国人居留地側を関内、以外を関外と呼んだ。外国人居留地には、イギリスやフランス、ドイツやアメリカを中心とした各国の外国商館が立ち並んだ。今に残る横浜中華街は、外国人居留地の中に形成された中国人商館を起源とする。一方日本人居住地は横浜町と名付けて5区域に分割し、各区域に名主を置いて総年寄が町全体を統括した。明治6年、横浜町は第1区1番組に編入され、1874年(明治7年)6月14日大区小区制により第1大区1小区となり、1878年(明治11年)11月21日に郡区町村編制法に基づき、第1大区が横浜区となり、久良岐郡から分離して横浜区長が管轄することとされた。そして、1889年(明治22年)4月1日、市制が施行されると同時に横浜区は市となり、横浜市が誕生した。当時の市域面積は、横浜港周辺の5.4 km²。面積は狭いものの、市制施行当時、すでに戸数27,209戸、人口121,985人(1889年末時点)に達した。その後、関内地区は市政と商業の中心地として発展する。

開港当初の横浜港には、東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)が設置され、東西波止場はその形から「象の鼻」と呼ばれた。象の鼻は、現在の大さん橋の付け根部分にあたる。ここでの貿易は、生糸、茶、海産物が輸出され、絹織物、毛織物が輸入された。明治5年9月12日(1872年10月14日)には、新橋(後の汐留駅。現在は廃止)と横浜(現在の桜木町駅)を繋ぐ日本初の官設鉄道が開通し、新橋・横浜それぞれの会場で盛大に開業式典が執り行われた。同年には、神奈川駅(現在の横浜駅近傍)と鶴見駅も開設されている。当時、生糸貿易の主導権は外国商館にあった。そのため、横浜商人と呼ばれた日本人貿易商は、1873年(明治6年)には生糸改会社を設立して競争力を高め、1881年(明治14年)には生糸荷預所を設立して生糸貿易の主導権確立に努めた。また、横浜商人たちは、県営水道の設置(1887年(明治20年))、横浜共同電灯会社の設立(1890年(明治23年))、十全病院の設立(1891年(明治24年))、生糸検査所、商業会議所の設立(1895年(明治28年))など、都市基盤の整備と商業の発達に大きく寄与した。

1909年(明治42年)には開港50周年を迎え、この年の7月1日[注 6] から3日間にわたって、横浜開港50年祭と銘打った数々の記念行事が催され、「全市は殆ど家族打連れて外出せしやの観あり」と伝えられた[21]。できたばかりの新港埠頭で行われた式典では、森鴎外の作詞による横浜市歌が、市内小学生の合唱によって初めて披露され、各国艦船は祝砲を放った。また、このとき、市章の「浜菱」が制定され、市民の寄付による開港記念横浜会館(1917年(大正6年)竣工。現・横浜市開港記念会館、ジャックの塔)の建設が計画されるなど、市制施行20周年と併せて盛大に祝われた。大正時代に入ると、鶴見川河口の埋立が始まって京浜工業地帯が形成され始め、横浜港は工業港としての性格をも持ち始めることとなる。

震災と戦災・接収の時代

関東大震災直後の横浜を視察する摂政宮(後の昭和天皇)

氷川丸(中区)
1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災(大正関東地震)では、横浜港、関内を始め、市内全域で甚大な被害を受けた。東京より震源に近くほぼ直下型地震の直撃を受けた横浜市内は特に壊滅的な被害を受け[注 7]、各国領事館の建物はすべて倒壊し、山手(横浜)地区の洋館群も壊滅的被害を受け、港湾機能・対外貿易都市としての機能は完全にマヒした。その後、震災復興事業により、日本大通りの拡幅、山下公園の造成、横浜三塔に数えられる神奈川県庁舎(キングの塔)や横浜税関庁舎(クイーンの塔)の建設などが行われ、1929年(昭和4年)にはほぼ旧状に復した。

昭和時代に入り、1926年(昭和2年)4月に第3次市域拡張が行われ、同年10月には区制が施行されて、鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区の5区が置かれた。以降も第6次まで続く市域拡張(1939年(昭和14年))と東京湾岸の埋立により市域は拡大し、市域面積は437.38 km²(2006年(平成18年))、行政区の数は18区となっている。1930年(昭和5年)前後には、現在山下公園に係留されている氷川丸など、豪華客船の就航が相次ぎ、横浜港は太平洋航路の乗船地として、客船黄金時代の一翼を担った。また、この頃の横浜港は、生糸貿易港から工業港へと変貌し、輸出、輸入とも、機械類・金属製品、鉄鋼の割合が高まった。この傾向は、第二次世界大戦中の軍需生産期、戦後の高度経済成長期を経て、より強まっていった。

第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲では、磯子区から鶴見区に至る沿岸部が焼き尽くされ、中区、西区の中心市街地は壊滅した[注 8][注 9]。同年8月の終戦によりイギリス軍やアメリカ軍、ソビエト連邦軍を中心とした連合国軍が進駐し、横浜の中心市街地と横浜港は接収され、都市機能は麻痺した[注 10]。連合国軍は、横浜税関ビルに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ、後に東京の第一生命ビルに移転)と太平洋陸軍総司令部(AFPAC)を置き、軍事拠点とした。空襲とそれに引き続く接収により、横浜の復興は大幅に遅れた。

1950年(昭和25年)、横浜国際港都建設法が制定され、復興に向けた取り組みが本格化する。1951年(昭和26年)には、対日講和条約が締結され日本の連合国による占領体制が終わり、新たに市長となった実業家で元貴族院議員の平沼亮三の下、接収解除に向けて動き始めた。また、この年には、横浜港の管理が国から市に移管された。条約が発効した翌1952年(昭和27年)以降、大さん橋や山下公園などが次々と接収解除された。1957年(昭和32年)には横浜国際港都建設総合基幹計画が決定され、今日に至るまでの都市計画の骨子となった。なお市域には475万m²余の在日米軍施設がある(2006年(平成18年)1月1日現在)[22]。

戦後の発展
1956年(昭和31年)9月1日、制度の開始とともに、政令指定都市に指定される。この頃から、相模鉄道を中心とした横浜駅西口の開発が始められた。1959年(昭和34年)に行われた開港100周年記念祭では、横浜公園平和野球場(現・横浜スタジアム)で、横浜出身の美空ひばりや草笛光子が3万人の観客を前に歌った。1964年(昭和39年)5月には根岸線(桜木町 – 磯子)が開通し、同年10月には東海道新幹線の開業に伴い、横浜線との交点に新横浜駅が開設された。横浜駅西口地下街が完成したのもこの年で、横浜駅西口は急速に発展し始めた。また、1960年代後半(昭和40年代)には中区の元町商店街が活況を呈し、元町ブランドで固めた山手の女子高生たちのファッションは、後に1970年代後半(昭和50年代)のハマトラ(横浜トラディショナル・ファッション)ブームへと繋がっていく。また、1966年(昭和41年)には東急田園都市線(溝の口駅-長津田駅)が開業し、今まで寒村であった市北部が東京のベッドタウンの多摩田園都市として発展し始めた。

横浜市営地下鉄
1963年(昭和38年)、日本社会党の衆議院議員であった飛鳥田一雄が市長となり、「革新首長」のリーダー的存在となった。1965年(昭和40年)1月、飛鳥田市政下、横浜市六大事業と呼ばれる都市計画プロジェクトに着手した。これは、(1) 横浜みなとみらい21に代表される都心部強化、(2) 金沢地先埋立事業による中小企業の集約化、(3) 港北ニュータウンの建設によるスプロール現象の抑制と良質な住宅街の提供、(4) 横浜市営地下鉄である高速鉄道建設事業、(5) 高速道路建設事業、(6) 横浜ベイブリッジ建設の6事業からなり、都市基盤の整備と中枢管理機能の充実を図るものである。

まず、高速道路建設に取りかかり、1968年(昭和43年)には神奈川県道高速横浜羽田空港線(浅田 – 東神奈川)が開通する。1972年(昭和47年)には横浜市営地下鉄(上大岡駅 – 伊勢佐木長者町駅)が開通した。また、1979年には横浜横須賀道路(日野―朝比奈間が開通し、1981年には狩場―日野間を、1982年には朝比奈―逗子間と逗子―衣笠間を供用開始した。

横浜スタジアム
1977年(昭和52年)には金沢地先埋立が完成し、1990年(平成2年)に大黒埠頭の埋立(第2期)が完成すると、横浜の東京湾沿岸における大規模埋立事業は一段落した。日本社会党委員長として国政に復帰した飛鳥田のあとを受けて、1978年(昭和53年)に市長となった細郷道一も、六大事業の推進に力を注いだ。1980年(昭和55年)には港北ニュータウンの入居が始まり、1985年(昭和60年)には人口が300万人を超えた。また、1978年(昭和53年)には横浜スタジアムが完成し、横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)の本拠地となった。

1989年(平成元年)、市制100年と開港130年を記念して、横浜博覧会が開催された。同年には横浜ベイブリッジも開通し、1994年(平成6年)の鶴見つばさ橋開通と合わせて、首都高速湾岸線の整備・延伸が進んだ。1990年(平成2年)、急逝した細郷のあとを引き継いで市長となった高秀秀信は、六大事業の中心となる都心部強化、横浜駅周辺地区と関内地区の間を繋ぐ横浜みなとみらい21地区の整備を本格化させた。1993年(平成5年)には、みなとみらい21地区のシンボルとなる横浜ランドマークタワーが完成した。

みなとみらい21(西区)
高秀は、六大事業の継続に加え、港北ニュータウンや新横浜等における横浜市北部での新規事業を追加した。1999年(平成11年)よこはま動物園ズーラシアが開園し、1998年(平成10年)に完成した横浜国際総合競技場(現在の日産スタジアム)と横浜国際プールは高秀市政の象徴となった。2002年(平成14年)には、国際総合競技場で2002 FIFAワールドカップの決勝が行われ、国際プールではパンパシフィック水泳選手権が行われた。また、2002年(平成14年)には、横浜港大さん橋国際客船ターミナルの建替が完成した。横浜国際港都建設法に基く国際港都建設事業である横浜市内の都市計画道路は戦後進捗が遅れていたが、高秀市政期に事業化された区間も多く、一定の進歩が見られた。

2002年(平成14年)、高秀と争って新たに市長となった中田宏は財政改革、行政改革、医療と教育の民営化を軸にした政策を打ち出した。主な政策としては家庭廃棄物の分別収集、外郭団体の見直しや統廃合、公立病院や保育園の民営化、交通局や水道局の構造改革、新緑税導入、横浜都心の立地企業増加に向けた企業立地促進条例の制定、横浜港への客船寄港促進等を行い、2008年度(平成20年度)には、1961年度(昭和36年度)以来47年ぶりに、普通交付税の不交付団体となる等成果に現れた。また国際コンベンションの誘致も積極的に行い2010年日本APECの開催誘致を行った。一方では都市計画道路整備の予算が減少し事業速度の低下がみられた。

2009年(平成21年)、開港150周年・市制施行120周年を迎え、横浜市などが設立した財団法人横浜開港150周年協会が中心となって、様々な記念事業・祝祭イベントが行われた[23][24]。同年4月28日から9月27日まで横浜みなとみらい21新港地区で開国博Y150が始まり[25](7月4日から9月27日まで、ヒルサイドエリア(横浜動物の森公園)でも開催)、4月19日には横浜動物の森公園で第20回全国「みどりの愛護」の集いが開催された。5月31日には横浜国際平和会議場(パシフィコ横浜)国立大ホールにおいて、天皇皇后両陛下、内閣総理大臣など三権の長らを招いて、横浜開港150周年記念式典が挙行された[26]。このほか、開港150周年を記念したプロジェクトとして、「象の鼻」地区を中心とした広場や緑地の整備[27]、「開港150周年の森」づくり[28]、横浜マリンタワーの再整備[29]、横浜市立横浜サイエンスフロンティア高等学校の開校[30] などが実施された。また、同年7月に任期途中で中田が市長職を辞任した。第45回衆議院議員総選挙と同じ同年8月30日に行われた市長選挙で、東京日産自動車販売代表取締役社長の林文子が新たな市長に選ばれた。

2010年(平成22年)11月13日から14日には、パシフィコ横浜が2010年日本APECの参加国首脳会議の会場になった[31]。2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災では、ごく少数ではあるものの、地震動による建造物の全半壊、液状化現象による建物損壊がみられ、大規模な停電が発生し、少数の死傷者などの被害が発生した。また、福島第一原子力発電所事故により放出された放射性物質が市域にも降下したため、土壌の除染等の対応が採られた[32]。

2013年(平成25年)5月には、保育所待機児童数がゼロとなったことを発表した[33]。これは、「横浜方式」と呼ばれる一連の待機児童解消政策の成果とされる。

行政区域の変遷
市制施行時の町名
1889年(明治22年)に横浜区が市制を施行した時の138町の町名。駿河町、富士見町は2ヶ所に存在。
現存する町名 現・西区 戸部町、伊勢町、宮崎町、老松町、花咲町、桜木町(四 – 七丁目)。
現・中区 桜木町(一 – 三丁目)、宮川町、野毛町、内田町、日ノ出町、黄金町、初音町、英町、石川町、吉田町、福富町、伊勢佐木町、羽衣町、蓬莱町、万代町、不老町、翁町、扇町、寿町、松影町、吉浜町、長者町、末吉町、若葉町、山吹町、富士見町、山田町、千歳町、三吉町、太田町、相生町、住吉町、常盤町、尾上町、真砂町、港町、元浜町、北仲通、本町、南仲通、弁天通、元町、諏訪町、千代崎町、上野町、山元町。
日本大通、海岸通(旧山下外国人居留地内)。
現・南区 永楽町、真金町。
現存しない町名
(カッコ内は現在の町名) 現・西区 月岡町(老松町)、平沼町、仲町、材木町(平沼)、高島町、裏高島町(高島)、長住町、橘町(みなとみらい)。
現・中区 緑町(真砂町)、清水町(赤門町)、霞町(赤門町、英町、西中町)、福島町(花咲町)、三春町(黄金町、初音町、前里町)、石川仲町(石川町)、柳町(吉田町)、姿見町、若竹町(末広町)、松ヶ枝町、賑町、長島町(伊勢佐木町)、足曳町(長者町)、吉岡町(曙町)、久方町(伊勢佐木町、長者町、曙町)、梅ヶ枝町、浪花町(羽衣町)、雲井町、駿河町(弥生町)、境町(日本大通)、薩摩町、越後町、前橋町、小田原町、豊後町、富士山町、九州町、上田町、堀川町、本村通、函館町、尾張町、蝦夷町、加賀町、大阪町、二子町、角町、武蔵横町、武蔵町、琵琶町、京町、水町通、本町通、長崎町、神戸町、阿波町、駿河町(旧山下外国人居留地内。山下町)、泉町、稲荷町、内台町、大丸坂、貝殻坂、公園坂、小坂町、汐汲坂、撞木町、陣屋町、諏訪町通、高田坂、環町、地蔵坂、西坂町、西野坂、畑町、林町、富士見町、南坂、三ノ輪坂、宮脇坂、谷戸坂通、矢の根町、山手本町通、弓町(旧山手外国人居留地内。山手町)。
その後の変遷
「市政記録」(2007年版)、第1部市勢編より
年月日 事柄 面積 (km²)  
1889年(明治22年)4月1日 市制施行 5.40
1901年(明治34年)4月1日 第1次市域拡張(橘樹郡神奈川町、久良岐郡戸太町・中村・本牧村・根岸村を編入) 24.80
1911年(明治44年)4月1日 第2次市域拡張(橘樹郡子安村の一部(大字子安)、久良岐郡屏風浦村の一部(大字磯子、滝頭、岡)・同郡大岡川村の一部(大字堀ノ内、井土ケ谷、蒔田、弘明寺、下大岡)を編入) 36.71
1927年(昭和2年)4月1日 第3次市域拡張(橘樹郡鶴見町・保土ケ谷町・旭村・大綱村・城郷村、久良岐郡屏風浦村・大岡川村・日下村、都筑郡西谷村を編入) 133.88
同年10月1日 区制施行。鶴見区、神奈川区、中区、保土ケ谷区、磯子区の5区を置く。 –
1936年(昭和11年)10月1日 第4次市域拡張(久良岐郡金沢町・六浦荘村を磯子区に、鎌倉郡永野村を中区に編入) 168.02
1937年(昭和12年)4月1日 第5次市域拡張(橘樹郡日吉村の一部(大字駒林、駒ケ橋、箕輪と矢上、南加瀬の各一部)を神奈川区に編入) 173.18
1939年(昭和14年)4月1日 第6次市域拡張(都筑郡都岡村・二俣川村を保土ケ谷区に編入。同郡川和町・新治村・田奈村・中里村・山内村・川和町・中川村・新田村を編入し、港北区を新設。鎌倉郡戸塚町・中川村・川上村・豊田村・本郷村・中和田村・瀬谷村・大正村を編入し、戸塚区を新設)。鎌倉郡から戸塚区、都筑郡から(1代目)港北区を新設。 400.97
1943年(昭和18年)12月1日 中区から南区を分区新設。神奈川区の一部を中区に編入。 –
1944年(昭和19年)4月1日 中区から西区を分区新設。 –
1948年(昭和23年)5月15日 磯子区から金沢区を分区新設。 –
1956年(昭和31年)9月1日 政令指定都市に指定。 –
1969年(昭和44年)10月1日 南区を(新)南区と港南区に分割。戸塚区を(新)戸塚区と瀬谷区に分割。保土ケ谷区を(新)保土ケ谷区と旭区に分割。港北区(1代目)を港北区(2代目)と緑区(1代目)に分割。港北区の一部(上菅田町、新井町)を(新)保土ケ谷区に編入。 417.29
1986年(昭和61年)11月3日 戸塚区を(新)戸塚区と栄区と泉区に分割。 430.80
1994年(平成6年)11月6日 港北区(2代目)と緑区(1代目)を再編し、港北区(3代目)、緑区(2代目)、青葉区、都筑区を新設。 433.20
2008年(平成20年)4月1日 – 437.38[34]