平塚市

概要

平塚市(ひらつかし)は、神奈川県のほぼ中央に位置する湘南地域の市である。施行時特例市に指定されている。

歴史

縄文時代 – 市内五領ヶ台、万田に集落が発生する。五領ヶ台の縄文遺跡では住居跡、貝塚等が検出されている。この遺跡は「五領ヶ台貝塚」として、1972年、国の史跡に指定された。ここから出土した土器は五領ヶ台式土器と称され、縄文時代中期の土器の代表的な様式のひとつとされている。
弥生時代 – 中原上宿、南原、上之入(市内岡崎)に集落発生。
4世紀後半 – 真土大塚山古墳、塚越古墳が築造される。(現在、大塚山古墳は消滅。ここからは三角縁神獣鏡やその他の貴重な遺物が出土している。塚越古墳は調査が続いている。(2009年9月現在))
奈良時代(8世紀ごろ)現在の平塚市四之宮周辺に下ノ郷廃寺が存在し、国厨・郡厨・大住厨と書かれた墨書土器が出土していることから、既にこの時期に相模国大住郡という行政組織が機能していたことが窺える。また相模国国府跡とも大住郡庁跡ともいわれている。
9世紀終から10世紀初頭 – 伝承によると、この頃平真砂子(高望王の妹)がこの地で没する。(「平塚の塚」の項に詳述。)
11世紀から13世紀から前半(和田合戦まで) – 高望王を祖とすると号する中村党の土屋宗遠が土屋周辺を、同じく高望王系である三浦党の岡崎義実(中村宗平の女婿)が岡崎周辺、その子佐奈田義忠が真田周辺を支配。
建久9年(1198年) – 相模川に架けた橋を源頼朝が馬で渡ろうとしたところ落馬し、これが翌年の頼朝の死去につながったという説があり、以降の相模川は馬入川の別名で呼ばれることになる。
ただし当時の流域は茅ヶ崎市だったという説がある。詳しくは旧相模川橋脚を参照。
応永23年(1416年) – 上杉禅秀の乱の功により中村党系の勢力は所領を失い大森氏の領するところとなる。
永正9年(1512年) – 北条早雲が三浦氏の岡崎城攻略。以降、小田原北条氏(後北条氏)の領するところとなる。
天正18年(1590年) – 豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼし、徳川家康が入封。
文禄5年(1596年) – 徳川家康により中原御殿(現 平塚市立中原小学校 – 日枝神社)が造営される。現代の中原街道という街道名はこれに由来する。また、同時期に造営された小杉御殿は現在の川崎市 中原区にあった。伝承ながら御殿裏門が市内南原の善徳寺三門に移築され遺構として残る。
1881年(明治14年) – 湘南社結成。国会期成同盟が全国統一組織として自由民権運動を推進していたが、神奈川では独自に活動がおこなわれていた。その先鞭をつけたのがこの湘南社であり、現在の行政区分で言うと大磯町に本部を、秦野・平塚・伊勢原に支所(講学会場)を設置した。のちに県下初の盲学校・私立中郡盲人学校を設立した宮田寅治などが主要メンバーとして知られる。
1945年(昭和20年)7月16日 – 平塚大空襲。陸軍戦闘機「疾風」で有名な日本国際航空工業や、第二海軍火薬廠、横須賀海軍工廠分工場、第二海軍航空廠といった軍直轄の軍需工場の密集する平塚市は、当時の市域(現在の東海道線平塚駅を中心として概ね半径2キロの地域。旧平塚市)における面積の約8割、戸数の約6割を焼失、死者237名、重軽傷者268名、罹災戸数7,678戸の大被害を受ける。このとき落とされた爆弾(主に焼夷弾)の数は1162.5トン、447,716本で東京都八王子についで第二位となった。
1951年 – 第1回七夕まつり開催。前年に開催された(平塚大空襲の)復興祭りが起源とされる。集客数は約300万人であり、これは仙台の約220万を抜いて全国一位である。
行政区画の変遷
1889年(明治22年)4月1日 神奈川県大住郡に平塚町・須馬村・大野村・神田村・城島村・岡崎村・金田村・小中村・豊田村・土沢村・金目村・大根村が、淘綾郡に山背村が設置される。
1896年3月26日 大住郡と淘綾郡が合併、中郡となる。
1909年4月1日 小中村・山背村が合併し旭村となる。
1927年(昭和2年)1月1日 須馬村に町制施行、須馬町となる。
1929年4月1日 須馬町を編入。
1932年4月1日 市制施行。平塚町を廃し、その区域をもって平塚市となる。
1944年2月11日 大野村に町制施行、大野町となる。
1954年7月15日 旭村を編入。
1955年3月2日 中郡大根村真田地区が金目村に編入。
1956年4月1日 豊田村が大野町に編入。
1956年9月30日 大野町・神田村・城島村・岡崎村(馬渡・大句地区を除く)・金田村・土沢村を編入。
1957年10月1日 金目村を編入。