小田原市

小田原市(おだわらし)は、神奈川県西部の市である。施行時特例市に指定されている。

概要

関東地方の南西端に位置し、戦国時代には後北条氏の城下町として栄えた。また、北条早雲から北条氏直まで北条五代の隆盛を影で支えたという風魔忍者の里。江戸時代には小田原藩の城下町、東海道小田原宿の宿場町として盛えた。箱根峠より東側の宿場町として、現在も箱根観光の拠点都市である。1876年(明治9年)4月17日までは、現在の神奈川県西部と静岡県伊豆半島を範囲とする足柄県の県庁所在地でもあった。西湘地域の中心的な都市である。

小田原提灯とかまぼこ、梅、オシツケ等の特産地として全国的に有名である。最近では小田原バーガーや小田原どん、かまぼこドッグ、スミヤキ、オリーブを売り出している。

一時期は東京のベッドタウン化したとも言われたが、長期不況で人口動態が減少に転じた。一時は20万人を超えた人口も20万を割り込み、新幹線通勤定期代に対する補助制度を設けるなど人口確保のための政策を実施している(ただし、2008年(平成20年)3月31日までに転入した対象者をもって新規受付は終了)。また駅周辺の再開発、および郊外での住宅、都市開発も少しずつ進んでいる。

歴史

古代
先史時代の小田原の中里遺跡は、縄文人と渡来人が共存共栄した数少ない遺跡(地域)として知られ、人口比率は縄文人が多かったと考えられているが、他の地域と違い、点々と存在した渡来人のみの小規模の集落ではなく、縄文人と共存した大集落であった。また、縄文文化と渡来文化の境界の東端であったとも考えられ、日本の文化人類学や考古学において貴重な資料を提供している。

古代の相模国足下郡(あしがらのしものこおり)の地である。古名を「こゆるぎ」といい、「小由留木」「淘陵」などの字が宛てられた。「小田原」という地名は、「小由留木」の草書体を読み間違えたものという説がある。市内千代にあった千代廃寺は相模国国府とも足柄下郡郡衙の所在地といわれる。

中世
平安時代末期から鎌倉時代にかけて、平将門を討伐したことで有名な藤原秀郷の子孫・佐伯経範が長元3年(1030年)頃に秦野に移り住んで波多野氏を名乗った。後に支流として、松田氏・渋沢氏・河村氏・栢山氏・大友氏・沼田氏などが出て、相模西北部にその一族の勢力を伸ばす。現在の秦野市内、足柄上郡松田町・山北町、南足柄市、小田原市の一部。波多野城は一族の居館である。波多野城のあった田原の、その支城として「小田原」が設置されたと言う説もある。

平安時代の末期治承4年(1180年)に、蛭ヶ小島(伊豆国)で挙兵した源頼朝と平家方の大庭景親らとの、石橋山の戦いが行われた。

戦国時代
戦国時代には伊勢平氏流を称する北条早雲が小田原城を奪取し、その子孫である後北条氏は小田原城を中心に関東一円に台頭し、鎌倉府足利氏、関東管領上杉氏、常陸国守護佐竹氏、下野国国司宇都宮氏、その他関東八屋形に列せられた諸氏による当時の関東の統治体制を転覆した。なお、下野国守護小山氏は後北条氏により滅亡に追い込まれた。北条氏が治めた城下町は戦国時代で最も大きく発展したといわれる[1]。

近世
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐による後北条氏の滅亡と徳川家康の江戸入府によって、小田原は歴史の表舞台から姿を消す。家康が関東を治めるようになった後は、部下の大久保氏が小田原に入った。

また後北条氏が滅亡するまで、関東一円の被差別民を支配し、皮革業に独占的な権益を持つなど勢力を誇った小田原太郎左衛門の本拠地があった。後北条氏が発給した判物が現存している。

江戸時代
江戸時代には東国の要衝として、譜代大名を領主とする小田原藩が置かれ、小田原はその城下町となった。貞享3年(1686年)以降は代々大久保氏の城下町となった。城下町・小田原は東海道の沿線であり、小田原宿は箱根の山越えを控えた宿場として東海道五十三次中最大の規模を誇った。又、小田原郊外の栢山(かやま)は、農政家・二宮尊徳の生地として有名である。

近代
明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県によって、小田原藩は小田原県となった。同年末の県合併により、相模川以西の旧相模国と旧伊豆国全域を管轄区域とする足柄県が設置され、県庁が小田原に置かれた。しかし1876年(明治9年)に足柄県は分割され、小田原を含む相模国部分は神奈川県に、伊豆国部分は静岡県となり、小田原は県庁所在地ではなくなった。神奈川県となった後に設置された支庁も、間もなく廃止されたが、1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって足柄下郡が編制されると、足柄下郡の郡役所が小田原に置かれた。

東海道本線は当初、小田原〜熱海〜沼津間の急鋭地帯を避けるために現在の御殿場線経路で敷設された。その後、小田原経由の路線として、小田原馬車鉄道という馬車鉄道が1888年(明治21年)に開通したのを皮切りに、熱海線(現在の東海道本線)・小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)なども開通した。

1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、直下が震源地だったために激しい被害を受けた。1934年(昭和9年)の丹那トンネル開通で、東海道本線はやっと小田原市街地を通るようになった。この辺は吉村昭の小説『闇を裂く道』(文春文庫)に詳しい。1945年(昭和20年)8月15日、熊谷市と並び、太平洋戦争最後の空襲を受ける。戦後、1951年11月28日に「小田原大火」が発生し市街地300戸あまりを全焼。1962年(昭和37年)新小田原市民歌を制定した。1964年(昭和39年)には東海道新幹線も開通し、東京・横浜への所要時間も大きく縮んだ。1990年(平成4年)市制50周年を記念して、ときめき小田原夢まつりが開催された。

1986年(昭和61年)1月27日には防災行政無線が開局される(当時の夕方のチャイムは「赤とんぼ(鐘系)」)。

1998年(平成10年)4月1日には防災行政無線放送等が変更され、2016年(平成28年)10月1日に防災行政無線の夕方のチャイム「ゆりかごのうた」に変更された。

2016年には南足柄市との合併を検討する協議会が設置され、2020年度を目途に合併することを検討していたが、2017年12月に南足柄市側より方針が撤回された[2]。

2007年より生活支援課の職員が「保護なめんな」とかかれた生活保護受給者を威圧するような文言の入った上着を着用し業務を行っていた「小田原ジャンパー事件」が2017年に発覚している。