八丈島

概要

八丈島(はちじょうじま)は、伊豆諸島の島。行政区分は東京都八丈町。隣の八丈小島と区別するため、八丈本島もしくは八丈大島と呼ばれることもある。日本の気象庁による火山活動度ランクCの活火山である。1964年、富士箱根伊豆国立公園に指定された。

歴史

考古学的には縄文時代に人が住んでいて、湯浜遺跡や倉輪遺跡から確認されている。[2]

律令制度においては東海道駿河国に当初含まれていた。

平安時代に伊豆大島へ流罪となった源為朝が渡来し、八丈小島で自害した伝説が残っている[3]。しかし、庶子であった二郎丸は生き延びのちに源頼朝より戦での功績として八丈島を領地として賜り、それから約1000年、源為朝の子孫が暮らし続けている。八丈島の公式な流人第一号は、慶長5年関ヶ原の戦いに西軍石田三成方に属した宇喜多秀家である。

秀家の子孫は、秀家の正室であった豪姫の実家である加賀藩前田氏の援助を受けながら数家に分かれて存続し、明治維新後の1869年に至ってようやく赦免された。赦免と同時に直系の者は島を離れて板橋宿の加賀藩下屋敷跡に土地を与えられて移住したが、数年後に島へ戻った子孫の家系が現在も秀家の墓を守っている。

最後の流人(最後まで流刑状態にあった人物)は北方探検で知られる旗本近藤重蔵の嫡男、近藤富蔵である。1826年(文政9年)に殺人を犯して八丈島に遠島となり50年以上もの間、島で流人としての日々を送った。1880年(明治13年)にようやく明治政府により赦免。彼が流人生活の間に記した『八丈実記』は島の研究の資料として東京都文化財に指定されている。

また、吉村昭の『漂流』は、野村長平ら鳥島への漂着者を題材にした小説だが、彼らが青ヶ島を経由して生還した地が八丈島であり、五か村四千戸が地役人を中心に統治され本土との連絡も緊密な様子が終盤に描写されている。

靖国神社の軍事博物館「遊就館」の回天一型
太平洋戦争の際には、連合軍の南方からの侵攻に備えるべく、小笠原諸島が陥落した際の次なる防衛拠点とされていた。1945年春時点では民間人口を大きく上回る陸軍・海軍の守備隊が配置されていた[4]。東日本では唯一の回天基地も造られた。1944年7月以降に島民の本土疎開が進められて人口の7割にあたる5853人が、外国人疎開地に指定されていた長野県軽井沢町などに避難したが、その途中で疎開船「東光丸」がアメリカ軍に撃沈されて島民約60人を含む149人が死亡する事件も起きた。島は空襲にもしばしばさらされ、民間人の人的犠牲として11人が死傷した[5]。結局八丈島での地上戦闘は起こらなかったものの、「防衛道路」や「鉄壁山」などに防衛拠点化の跡が残っている。

戦後の八丈島は観光産業が発達し、1960年代にはその温和な気候から、首都圏からの新婚旅行先としても人気が高かった(当時の八丈島は「日本のハワイ」と呼ばれていた)が、海外旅行の制限が廃止され、本物のハワイが身近になった1970年代以降観光客の入込数は減少傾向にある。ただし現在でも観光が島にとって重要産業であることに変わりはない。