野田市

概要

野田市(のだし)は、千葉県北西部の東葛地域に位置する都市。人口約15.5万人で、千葉県内では12位。東京都特別区部への通勤率は13.0%(平成22年国勢調査)。

歴史

東葛飾郡野田町 A 野田市
東葛飾郡旭村
東葛飾郡梅郷村
東葛飾郡七福村
東葛飾郡川間村 C
東葛飾郡福田村
東葛飾郡木間ヶ瀬村 B D
東葛飾郡二川村
東葛飾郡関宿町
A 1950年(昭和25年)5月3日
B 1955年(昭和30年)7月20日
C 1957年(昭和32年)4月1日
D 2003年(平成15年)6月6日
野田市と旧関宿町は合併したが、互いに異なった歴史を持ち、違った発展を遂げている。そのため、ここでは野田市と旧関宿町を別々に分けて説明する。

野田市
先史・古代・中世

野田貝塚(2012年12月)
野田は江戸時代以前の記録に乏しいが、小規模な遺跡が点在しており、古くから開かれていた土地であることがわかる。古代の遺跡としては野田貝塚、山崎貝塚などが残っており、中規模の集落があったとみられている。

中世の遺跡としては、後三年の役で活躍した鎌倉景正の居城や、古河公方の重臣・野田右馬助の居城があったと伝えられている。ただし遺構は発見されていない。

また尾崎には、鎌倉幕府の有力な御家人だった野本家定の城館と伝えられる、比較的規模の大きい城館跡も残っている。木野崎には、国人の一色数馬の城館跡が残っており、豊臣秀吉の派遣した軍との戦いがあったと伝えられている。

江戸時代
徳川家康の江戸入府後には、1590年(天正18年)に岡部長盛の居城が山崎に築かれ、のちに堤台に移ったと伝えられている。

「下総山崎藩」を参照
これらの遺構や伝承はある程度残っているものの、記録が少ないため中世の情報はわからないことが多い。

野田は江戸時代に入るとやや記録が増える。これは、大消費地となった江戸に出荷する醤油産業が興り、恵まれた水運を利用して、醤油の一大ブランド地として栄えていったためとされる。陸上交通として、日光東往還が通されたため、山崎宿・中里宿などの宿場も興った。

近代以後
1889年(明治22年)4月1日
野田町・清水村・上花輪村・中野台村・堤台村・桜台村の飛地・今上村の飛地が合併して野田町が置かれる。
大殿井村・目吹村・鶴奉村(明治7年、鶴嶋新田と奉目新田が合併)・柳沢新田・宮崎新田・中根新田・横内村・花井新田の飛地が合併して旭村が置かれる。
山崎村(明治初期、亀山新田を編入)・今上村・桜台村・花井新田・堤根新田・宮崎新田の飛地・清水村の飛地・上花輪村の飛び地が合併して梅郷村が置かれる。
谷津村・吉春村・蕃昌新田・五木村・五木新田・岩名村・座生新田・尾崎村の飛地が合併して七福村が置かれる。
東金野井村・中里村・船形村・尾崎村が合併して川間村が置かれる
木野崎村・三ツ堀村・瀬戸村・二ツ塚村・上三ケ尾村・西三ケ尾村・下三ケ尾村・大青田村の一部(利根運河の北側)が合併して福田村が置かれる。
野田市の年表
1895年(明治28年)
梅郷村のうち江戸川右岸(今上の一部)を埼玉県北葛飾郡旭村に編入。
旭村が埼玉県中葛飾郡金杉村大字金杉の飛地を編入し大字金杉を設置。
1899年(明治32年) – 川間村が茨城県猿島郡中川村の一部(利根川以南)を編入し大字小山・筵内・長谷を設置。
1917年(大正6年) – 高梨家・茂木家など在郷醤油醸造家が合同して設立されていた野田醤油醸造組合が株式会社となる。
1921年(大正10年) – 野田醤油労働争議が勃発。全国から労働運動家が来訪。
1923年(大正12年) – 福田村事件が起こる。
ウィキソースに昭和25年6月8日総理府告示第177号「市町村の廃置分合」の原文があります。
1950年(昭和25年)5月3日 – 野田町・旭村・梅郷村・七福村が合併し、野田市となる。
1951年(昭和26年)1月1日 – 川間村の一部を野田市に編入する[告示 1]。
1951年(昭和26年)七福地区に大字七光台を設置。
ウィキソースに昭和32年3月30日総理府告示第144号「市町の廃置分合」の原文があります。
1957年(昭和32年)4月1日 – 川間村・福田村を合併。
1961年(昭和36年)9月1日 – 関宿町との境界を変更する[告示 2]。
1965年(昭和40年) – 川間地区に日の出町を設置。
1966年(昭和40年) – 東京理科大学野田校舎(現在の野田キャンパス)が竣工。
1971年(昭和46年) – 野田地区に中野台鹿島町を設置。
1973年(昭和48年) – 野田地区に上花輪新町を設置。
1978年(昭和53年) – 七福地区に春日町・五木新町を設置。
1980年(昭和55年) – 七福地区に岩名一丁目・岩名二丁目を設置。
1982年(昭和57年) – 野田工業団地造成完了。
1983年(昭和58年)11月19日 – 南部地区に山崎貝塚町を設置[告示 3]。
1988年(昭和63年) – 七福地区に大字谷吉を設置。
1989年(平成元年) – 南部地区に大字山崎梅の台を設置。
1995年(平成7年) – 川間地区に大字尾崎台を設置。梅郷地区に花井一丁目を設置。
1999年(平成11年)10月1日 – 関宿町との境界を変更する[告示 4] 2002年(平成14年)3月2日 – 南部地区にみずき一丁目・みずき二丁目・みずき三丁目・みずき四丁目を設置[告示 5]。
ウィキソースに平成15年4月4日総務省告示第288号「市町の廃置分合」の原文があります。
2003年(平成15年)6月6日 – 関宿町を編入合併し、現在の野田市となる。
2006年(平成18年)
9月 – 野田地区に清水公園東一丁目・清水公園東二丁目を設置。
10月 – 野田地区に桜の里一丁目・桜の里二丁目・桜の里三丁目を設置。
1970年代以降、国道16号沿線に工場や物流施設が多数移転し、東武野田線を通勤路線として東京のベッドタウン化が進む。しかし、1990年代以降都心回帰現象の影響を受け、青年男子層が進学・就職を機会に市外に流出、高齢化の進展を見ている。

近年都市再生機構が市南部みずき(旧山崎)地区に開発を進めている野田みずきの街や、つくばエクスプレスの開業により東京都心へのアクセスが早くなった事から、人口は再び増加に転じている。

旧関宿町
「関宿町」を参照
江戸時代以前
室町時代より関宿城が築かれ古河公方に仕えていた簗田氏が支配する。戦国時代には、簗田氏はたびたび後北条氏と争った。関宿合戦と呼ばれる。

江戸時代
江戸時代には関宿藩がおかれ、徳川譜代の大名が城主を務めた。以後、関宿城の城下町として栄える一方、現在の江戸川と利根川の分流点に位置したため河岸ができ、また水上交通の要衝として関所が置かれた。また日光東往還の宿場として、陸上交通の要衝でもあった。下総有数の繁華の土地であり向河岸・境町も含め人口数万の繁栄を誇った。

近代以後
廃藩および舟運の衰退により以前の繁栄は失われ往時の繁栄を見出すことは難しい。一方において、橋幸夫の「潮来笠」に登場する実在地名だったので、中高年者には利根川岸の一小邑として広く知られた。大映映画「潮来笠」の舞台にもなった。橋は地名消失の報に接しすこぶる残念に思い、合併後の2005年(平成17年)に当地を訪れている[注釈 1]。

バブル崩壊以降東京通勤圏の域外と見なされ、県内地価下落率の上位地点となったうえ人口が毎年減少を続けてきた。特に最大集落、大字木間ヶ瀬は年間100人を超える人口減が起こっている

。南部地区は逆に毎年、人口が増えている。

旧関宿町の年表
1889年(明治22年)4月1日 – 関宿町・二川村・木間ヶ瀬村が置かれる。
ウィキソースに昭和30年7月15日総理府告示第1332号「町村の廃置分合」の原文があります。
1955年(昭和30年)7月20日 – (旧)関宿町・二川村・木間ヶ瀬村が合併し、関宿町となる。
2003年(平成15年)6月6日 – 関宿町は野田市に編入される。
関連項目
日本の廃止市町村一覧
千葉県の廃止市町村一覧