木更津市

木更津市(きさらづし)は、千葉県中西部にある市である。君津市への通勤率は11.5%(平成22年国勢調査)。

概要

東京湾に面し房総半島中部の上総地方に位置する。中心市街地は旧木更津町の範囲に相当する木更津地区に形成されており、木更津地区には市役所や木更津警察署、木更津消防本部、木更津図書館などの公共施設、および市の中心駅である木更津駅や重要港湾の木更津港が存在する。市の玄関口に該当する木更津駅前および木更津港を中心に商店街を形成するが、バブル崩壊による経済構造の変化に伴い駅前商店街は活性から衰退傾向に転化する。その代わりに1990年代以降、東京湾アクアラインに代表される高速道路網の整備により、主要交通機関が鉄道とフェリーから自動車へと変化し、館山自動車道や東京湾アクアライン連絡道に接続する国道16号沿いに郊外型の店舗が集中する。

歴史

木更津という地名の由来について、如月の津が転じて木更津になった、木足らずが訛り木更津になったと諸説あるが、一般的には倭建命伝承の一説、君不去(きみさらず)が元になっているというのが通説である(下記の伝承の項参照)。木更津という地名が使われ始めたのは、最も古い文章で1353年(文和2年/正平8年)に記された文献で木佐良津と記されている[5]。ただし、当時の江戸湾沿岸を代表する港は木更津の北にある高柳(現在の木更津市高柳)や富津であったと考えられており、1576年に江戸湾沿岸の諸港に半手(戦国期に領土を争う両勢力が紛争地の租税を暫定的に半分ずつにする事)を認めた北条氏規の朱印状には内陸化した高柳に代わって江川や葛間(現在の久津間、江川とともに木更津市)の名前はあるものの、木佐良津の名前はないため、当時は租税を取るほどではない小さな漁港に近かったと推測されている。

『古事記』や『日本書紀』によると、倭建命が東征の折にこの地方に立ち寄ったと記されており、この事象が元となった地名が随所に見られる。歴史的に考察するとこの地方には倭王権に敵対する勢力が存在していた事を示しているという説がある。事実、小櫃川流域を中心とする地域には支配階級にあたる豪族(国造)が存在していたとされ、それを証明する古墳群が形成されている。奈良時代の文献には小櫃川流域一帯(現在の木更津市、袖ケ浦市、君津市の一部に相当)を馬来田国として記されており、この地方を馬来田国造という豪族が支配していたと記録されている。1950年(昭和25年)市内長須賀の金鈴塚古墳(二子塚古墳)の発掘調査が行われる。この古墳は6世紀後半頃に造られたものとされ、馬来田国造の一族のものとされる。この古墳からは大刀や銅容器・武具・古墳名称の元となる純金製の5つの金鈴などが出土されている。

1456年(康正2年)頃上総武田氏の祖である 武田信長が上総守護代となり、上総地方進出の足がかりとして真里谷城を築城する。以降、真里谷城は庁南城 (千葉県長生郡長南町)と並び上総武田氏の居城として繁栄する。武田信長の子孫の内、真里谷城を拠点とするものは真里谷氏を名乗り戦国大名化する。真里谷氏は一族の内紛と第1次国府台合戦の末に勢力が衰退し、上総地方の支配者も真里谷氏から里見氏、北条氏へと移り変わる。1590年(天正18年)真里谷城は豊臣秀吉の小田原征伐で侵攻された後、廃城になる。現在、真里谷城跡はキャンプ場(少年自然の家)として利用されている。

1614年(慶長19年)大坂冬の陣に木更津の水夫24名が徳川幕府方について戦功を上げる。その水夫の功により幕府は、江戸-木更津間での渡船営業権や江戸の日本橋に「木更津河岸」を拝領地として与える等の特権を与える[6]。ただし、その根拠とされている現存文書は史実と矛盾する内容が含まれており、今日では偽文書と考えられている。もっとも、元和年間(1615年)以後に幕府が木更津に代官を置いた記録は確認できるため、これに近い事実はあったと考えられている。幕府は軍事上の目的から主要河川に橋を架けることを禁止し陸路には至る所に関所を設ける政策を採っていたため、この時代の流通手段は水運が主流になる(河岸を参照)この特権により木更津は安房・上総-江戸間との海上輸送を取り扱う流通拠点として急激に発展する。運送には喫水が浅く海川両用の 五大力船が用いられた。木更津から江戸にやってくる五大力船は通称木更津船と呼ばれ、歌川広重の浮世絵にも描かれている。歌舞伎の演目『与話情浮名横櫛』は江戸期に木更津で実際に起きた事件がモチーフとなっており、当時の港町木更津の様子を垣間見ることができる。

江戸時代末期の1825年(文政8年)幕府の旗本であった林忠英は3,000石の加増を受けたことにより1万石の大名として諸侯に列し貝淵藩を立藩する。陣屋を望陀郡貝淵村に設けられるが、2代目藩主の林忠旭の時代に請西村に移し、以降同藩は請西藩と称するようになる。請西藩は、最後の藩主である4代目林忠崇が藩主自ら脱藩し明治政府の東征軍に抵抗したことが朝敵行為とされ、1868年(明治元年)幕府方諸侯の中で唯一改易処分を受ける。

明治新政府樹立後、1868年(明治元年)改易となった請西藩の替わりに松平信敏が上総国貝淵に移封し1万石で桜井藩が立藩する。1871年(明治4年)廃藩置県施行により 8月には桜井藩は廃藩となり桜井県が設置、11月には桜井県を含む旧安房国・上総国に相当する木更津県が設置される。木更津県設置にあたり県庁が貝淵村に設置される。木更津県が存在したのはわずか2年足らずで、1873年(明治6年)には廃止し、印旛県と合併し千葉県となる。1878年(明治11年)制定の郡区町村編制法に基づき望陀郡、周淮郡、天羽郡の郡役所が設置され、1897年(明治30年)望陀、周淮、天羽の3郡が合併し君津郡が成立した時に君津郡役所が設置されており、君津郡地域において木更津市は政治的中心都市であった。1973年(昭和48年)11月に、木更津県県庁所在地のあった桜井藩邸跡に「木更津県史蹟」の石碑が建てられている。

日本国内が軍国主義にある1930年代、木更津は軍都として発展する。1935年(昭和10年)当時の 大日本帝国海軍は、帝都防衛を目的に、木更津港北側を埋め立てて航空基地の造成を行った。1936年(昭和11年)3月に木更津飛行場が完成、同年4月1日に木更津海軍航空隊の開隊式が行われる。木更津飛行場は太平洋戦争末期に日本初の国産ジェット機にあたる橘花のテスト飛行が行われた場所でもある。1941年(昭和16年)同航空隊の北東、君津郡巖根村に海軍工廠(第二海軍航空廠)が設置され[7]、木更津町および巖根村には工廠で働く工員とその家族が移住したため、急激な人口増加による住宅不足の問題に直面する。2町村では大勢の移住者を受け入れる住居や新しく家を建てる土地も無く、隣接する清川村にも移住者の受け皿としての役割を求めるようになり、木更津町、巖根村、清川村の3自治体を中心に合併協議が進められる。後に協議に加わった波岡村を含める4自治体の人口の合計が当時の市制施行条件である3万人を越すことが人口調査の結果で判明し、1942年(昭和17年)木更津市として 市制を開始した。1945年(昭和20年)太平洋戦争終結以降は米軍の管理下に置かれ、1968年(昭和48年)より陸上自衛隊の駐屯地、海上自衛隊の補給所として利用されている。

1961年(昭和36年)木更津市に隣接する君津市へ君津製鐵所の誘致が決定する。その背景には 1950年(昭和25年)に公布された国土総合開発法において千葉県側東京湾沿岸地域の工業地帯化が計画され、農業から工業への転換を図りたい県との思惑が一致し京葉工業地域の開発が促進されたことによる。製鉄所建設に伴い君津郡地域の東京湾沿岸部で漁業を営んでいた漁家は埋立てによって職を失うことになり、県より漁業補償を受けて漁業権を放棄、転業を余儀なくされた[8]。漁業組合と漁業権放棄に関する交渉が終了し、木更津港南岸から君津市の臨海部の範囲を埋立てて製鉄所の建設を開始、1965年(昭和40年)に君津製鐵所の操業が本格的に開始する。君津市への製鉄所進出は木更津市にも影響を及ぼし、木更津市内には同社の系列・関連会社が進出しその社員および家族の転勤による移住が顕著になる。また1960年代から70年代後半にかけて区画整理事業として清見台、請西、畑沢など波岡地区を中心に計821haの土地の宅地造成が行われる。それにより、市内の人口が1960年には約6万人であったのが80年代中頃には12万人を突破、およそ20年の期間で人口が2倍にまで膨れ上がる。

1983年(昭和58年)千葉県において千葉新産業三角構想が策定される。木更津市およびその周辺都市(君津、富津、袖ケ浦)は新産業三角構想の基幹プロジェクトの一つであるかずさアカデミアパーク構想において、研究開発拠点の母都市に位置付けられる。研究開発拠点の形成を目標としたかずさアカデミアパーク構想に基づき、国際水準に対応した研究機関が集約する研究都市の整備および各拠点とを結ぶ道路網の構築が進められる。かずさアカデミアパークは上総丘陵に整備されることが決定し、1991年(平成3年)に鎌足地区に第一期区画整備が進められ、1994年(平成6年)にはDNA専門の研究所としては世界初となるかずさDNA研究所が開設する。1996年(平成8年)第一期区画整備で計画されていた278ヘクタールについては基幹整備がほぼ完了し、民間の研究所を中心に立地が進められる[9]。かずさアカデミアパーク構想および木更津業務核都市構想に基づき、木更津市を業務核都市として他の都市との道路網の整備が行われ、1995年(平成7年)館山自動車道が木更津南ICまで開通し、千葉市との間を高速道路で結ばれる。1997年(平成9年)東京都心部および神奈川県とを結ぶ東京湾アクアラインが完成。2007年(平成19年)館山自動車道が全線開通したことにより、富津館山道路と直結して南房総市まで結ばれた。2012年(平成24年)に市制70周年を記念して市のマスコットキャラクター「きさポン」が誕生しお披露目された[10][11]。2013年(平成25年)圏央道が東金JCTまで開通して千葉東金道路と直結し、新産業三角構想の内の「国際物流拠点」を担う成田空港(成田市)と結ばれるようになった[12]。

年表
1871年(明治4年)11月13日 — 木更津県が設置され、木更津県の県庁所在地となる
1873年(明治6年)6月15日 — 木更津県廃止
1889年(明治22年)4月1日 — 布令により木更津町および9村が発足
1912年(大正元年)8月21日 — 木更津線(現内房線)が姉ケ崎駅から木更津駅まで延伸開業する
1912年(大正元年)12月28日 — 木更津駅、久留里駅間を軽便鉄道が開通する(現久留里線)
1920年(大正9年)10月1日 — 第1回国勢調査実施。木更津町の人口は8,551人
1924年(大正13年) — 児童雑誌『金の船』12月号にて童謡『証城寺の狸囃子』発表
1936年(昭和11年)4月1日 — 木更津港北側を埋め立て海軍航空隊を設置
1942年(昭和17年)11月3日 — 市制開始。全国で197番目、県下で6番目の市となる。当時の人口は33,817人
1948年(昭和23年)8月14日 — 第1回港まつり開催
1965年(昭和40年)4月1日 — 木更津港-川崎港および木更津港-横浜港(1972年廃止)をカーフェリー就航
1968年(昭和43年)4月17日 — 木更津港が港湾法に基づき、重要港湾に指定される
1972年(昭和47年)-木更津市役所潮見庁舎完成。供用開始。
1975年(昭和50年)5月 — 中の島大橋完成
1976年(昭和51年)9月10日 — 市の人口が10万人を越す。千葉県で9番目の10万人都市となる
1992年(平成4年) — きみさらづタワー完成
1997年(平成9年)12月18日 — 東京湾アクアライン開通。それに伴いカーフェリー木更津-川崎航路が廃止する
2002年(平成14年)1月 – 3月 — 木更津キャッツアイがTBS系列で放送
2004年(平成16年)4月28日 — アクア木更津がオープン
2009年(平成21年)8月1日 — 社会実験として東京湾アクアラインでETC普通車の通行料が800円に
2011年(平成23年)4月 – — 鳳神ヤツルギが千葉テレビで放送
2012年(平成24年)4月13日 — 三井アウトレットパーク木更津がオープン(2014年7月17日に、第2期拡張部オープン。(全248店舗))
2015年(平成27年)9月24日 — 市役所庁舎移転[13]。駅前庁舎と朝日庁舎に分散される。新庁舎は、2020年を目処に建設の見込み。
伝承
千葉県には倭建命と源頼朝に関連する伝承が多いという特徴が挙げられる。この特徴は木更津市においても同様であり、市内には関連する伝承が今に伝えられている。『古事記』や『日本書紀』、『風土記』の一説において倭建命伝説が扱われており、木更津市は倭建命が 上総国に渡る場面の舞台として記されている。源頼朝伝説は、源頼朝が伊豆で挙兵したものの平氏との合戦に敗れて安房に逃れ、房総半島の諸勢力の力を得て再起したという歴史的経緯[14][15]の中から派生したものである。また、童謡証城寺の狸囃子のモチーフとなった、市内の證誠寺に伝わる『證誠寺の狸伝説』が有名である。

倭建命の東征
倭建命の東国征伐のこと。船で上総国に渡ろうとした時に一行は海上で嵐に襲われる。そして倭建命の妻、弟橘姫は海に身を投じることで嵐を静めようとする。弟橘姫の祈りが通じたのか嵐が収まり一行は無事に上総国に渡る事ができた。それから倭建命はこの地にしばらく留まり弟橘姫のことを思って歌にした。
(和歌)
君さらず 袖しが浦に立つ波の その面影をみるぞ悲しき
この歌の一節君さらずが転じて、木更津という地名となったと伝えられている。
市には吾妻という地名があるが、倭建命が弟橘姫を偲んで「吾妻はや(我が妻よ)」と言った故事に由来するとされている。市内には吾妻神社という神社が存在し倭建命と弟橘姫が祀られている。またこの地域には吾妻、我妻を姓とする人がおり、これも倭建命伝説に由来しているとされている。
源頼朝伝説[16] 石橋山の戦いで平家に敗れた源頼朝がこの地方に立ち寄った際に見かけた竹林があまりにも立派だったため、この竹を源氏の旗竿にすることにした。以降この地を旗竿村と呼ぶようになった。伝承では市内の畑沢[17]という地名はこの旗竿村に由来するとされている。また、草敷という地名についても頼朝が刈草を敷いて休息をとったという言い伝えが元になっている。
源頼朝が鎌倉幕府開府にあたり、市内の八剱八幡神社に神領を寄進して社殿を造営したという伝えがある。
證誠寺の狸伝説
市内の證誠寺に伝わる伝説で、童謡『証城寺の狸囃子』はこの伝説を元に作られた。童謡は『しょ しょしょうじょう寺〜♪』と軽快なリズムの明るい曲だが、昔話として伝わる狸伝説は「秋の夜に和尚と何十匹もの狸が寺の庭で 囃子合戦をした挙句、夜が明けたら調子を取っていた狸の親分が腹を破いて死んでいた」という面白くも悲しい話である。